ksen2005-12-13

今年も残すところ2週間あまりとなり、寒い日が続いていますね。喪中欠礼の挨拶状が届く頃になり、当方の加齢もあってか、その数も年ごとに増えているようで、寂しさを感じています。
今年亡くなった著名人では、日本では小倉昌男氏や中山素平氏(元日本興業銀行頭取、写真)などが記憶に残っています。中山氏については「日経ビジネス」が2回にわたって追悼の記事を掲載しました。11月28日の記事では、氏が社会の2極化現象に繰り返し警鐘を鳴らしていたことを伝え、以下のように続けています。「中間層が大きな社会構造こそが日本の強みだ、と。(いま)日本の社会は確実に2極化の方向へと動いてきた。経済原則に照らせば当然のことと受け入れるのか、「国」「信念」「使命」という中山氏の発言に頻繁に登場する言葉をてがかりに問題を解決するのか」。
私も、大きな中間層が日本の強みである(あった)ことに、全く同感です。それが変わりつつあり、格差が広がり、かつ固定化していくとしたら・・・・
中間層がうすくなればなるほど、エリートの不在という、本来は日本社会の安定とエネルギーを支えていた特色が逆に弱点となってくるのではないか。エリート意識のないお金持ちがますます増え、他方で羨望と嫉妬と不満を抱く人たちも増えていくとしたら、それは社会の漠然とした不安や品性の欠如を助長していくのではないか。そんな懸念を感じているのですが、どんなものでしょうか。
たまたまいま読んでいる、水村美苗読売文学賞受賞作『本格小説』にこんな一節がありました・・・「アメリカでは金持であることと寄付することとは月見と徳利のように切り離せなかった。思えば慈善事業に関わるようになったという表現ほど金持になったという実感を与える表現はなかった。それは個人でジェット機をもっているよりも富の重さをずしりと伝えた」
日本にはそんな金持は存在しないよ、と一蹴されてしまうでしょうか。日本では個人よりも一部の大企業に期待した方がいいのでしょうか。