ksen2006-01-12

前回、霊元天皇が大文字登山をしたと紹介しましたが、これに某氏から面白い(と私は思ったのです)コメントがメールで来ました。つまり「江戸期の天皇は在位中は、御所から1歩も外に出られなかった」というのが通説で、従ってもしこの天皇が登山したとすればまことに珍しい話だそうです。こういう制約を厳しく押しつけたのは徳川幕府とのこと。自らの無学を思い知りましたが、しかし、大文字山頂にある木札には、この日、叔父さんのお寺で松茸狩りをしたとも書いてあるし、まんざら嘘でもなさそうです。以上ご参考まで。
ところで正月休みに『本格小説』(水村美苗)を読み終えたと前に書きましたので、今回はその補足です。著者は12歳からニューヨーク郊外に住み、エール大学博士課程修了、プリンストン大学等で日本近代文学を教える。小説は「まだ優雅な階級社会が残っていた、昭和の軽井沢」が舞台。「静かで、深い感動が心を満たす超恋愛小説」と宣伝文句にあります。NYで、運転手から始めて大富豪になった東太郎という謎の男を主人公に、身分違いのよう子との幼い恋、15年ぶりの一時帰国と再会、よう子の死と日本を捨てる・・・と、話しは展開します。
筋立てはともかくとして、私が興味を惹かれたのは、時折挿入される、著者の長いアメリカ体験に裏打ちされた日本観・階層意識・日米文化比較についてのコメントです。
たとえば、少し長いですが、語り手である、かってお手伝いさんをしていた女性による回想をご紹介しましょう。
・ ・・「わたしのような者から見れば、恵まれた育ちをした人たちの特権だとも僭越だとも思えるのですが、よう子ちゃんは昔から、人類の役に立つとか立たないとかいう言葉が好きでした。大した額ではないにせよ、ご当人は、世界の貧民の子供たちに教育を与えるための「フォスター・プラン」というプログラムに入ったり、NHKの年末基金に応じたり、まさかそれだけでは人類の役に立っていると思ってはいないでしょうが、それでも何か理念として人類の役に立つというのがあるのです」・・・・
この文章を読みながら、こたつに入ってぼんやり考えたのは以下の4点です。
まず私たちのような、特権には縁のない庶民・市民であっても「人類に役に立つ・・」というような僭越なことを考える姿勢が許されるのではないだろうかということ。
次に、私たちとは違った「勝ち組」といわれる新しいエリートたちは、さらにいっそう考えてもらいたいものだという願い。
最後に、これから社会に出て行く若者に、どのような生き方を選択しようとしているのか、聞いてみたいなという思い。
そして、最後に、さはさりながら、「いわゆる誠実な身振りは、いわば自分のエゴイズムや感傷性を見落としていて、無性に腹立たしい気持ちにさせられた」(吉行淳之介『私の文学放浪』)という感性も忘れないようにしたいという自省。
正月早々の雑感です。