前回の沖縄についてのブログに我善坊さんから長いコメントをメールでいただきました。

この問題をフォローしたいと思ったのは同氏と私ぐらいしかいないかもしれませんが、せっかくですので(記録性という点からも)、長くはなりますがブログに残しておきたいと思います。


(我善坊さんのコメント)以下要約になっているか自信ありませんが、


・ 沖縄が江戸時代おかれてきた特殊な位置から、沖縄は本当に日本なのか?という議論はいまもある。
・ ちなみに一緒に大学院で学んでいるイタリア人留学生は、江戸幕府に19回にわたって派遣された「琉球使節」を修論のテーマにしている!
・ 明治になって完全に大日本帝国に組み込まれ、第2次大戦では国内唯一の陸戦場となり・・・沖縄はまさに江戸時代以来の日本のあらゆる矛盾を一手にひきうけて苦しんできた。(今日本の米軍基地の75%が沖縄にある)
・ そこで日本(人)とは何を指すのか?
アイヌと沖縄がともに縄文文化をになった原日本人であるという認識では共通しているが、その後の大和朝廷との関係では完全には「内側」に組み込まれてこなかった
・ 民族が国家をつくるのか?国家があらたに民族をつくってしまったのか?
いま中国では新たに「中華民族」という概念をつくりだし、内蒙古人や満州人はもちろんチベット人や新きょう・ウイグルの回教徒まで含み、中華人民共和国は「中華民族の国」と称している。


(感想)
・ 私の性向としては、「沖縄は本当に日本なのか?」と問うよりも「沖縄(人)」は沖縄(人)でもあり日本(人)でもある、という理解をしています。実は沖縄人が「縄文をになった原日本人」であるという認識についてはあまり知識ないのですが・・・
エスニシティ(人種)とナショナリティ(国籍)との2つのアイデンティテイをもつことが当たり前と考えてはどうでしょうか?
・ つまり、人種は沖縄人、国籍は日本人ということ。日本ではほとんどが人種=国籍なので、日本人というとこの2つを自然に合わせて考えてしまうのではないでしょうか?(在日韓国人エスニシティは韓国人・国籍は日本人でいいのでは・・と個人的に思うのですが、この国の法律は原則みとめません)。
・ 昨年の後半にニューヨークからやってきてしばらくお付き合いしたジムさん(コロンビア大学)であればエスニシティユダヤ人(彼はこのことをかなり強く意識していました)国籍はアメリカ人ということでしょう。
・ したがって我善坊さんの指摘される中国の動き、私は知らないので興味深く読みましたが、これはむしろ差別につながるのではないか?
アイデンティティが複数あっておかしくないと考えること、同じ国の中でのさまざまな人種の違いをみとめること・・「同じ」カテゴリー(例えば「中華民族」)の中の差ではなく、そもそも「違う」(そこに差があるわけではない)とみとめあうことは、むしろ差別をへらす方向へと行くのではないか?

(関西沖縄文庫の金城さん)
・ 実は彼のコメントも私の感覚に近くて(と私が勝手に思っただけかもしれませんが)、1月23日の訪問時、以下のような発言がありました。
・ ウチナンチューとヤマトンチューと、理解ではなくお互いに分からないと認めあうこと→そこから差別を解決する糸口が生まれるのではないか
・ 多数が少数を理解しょうとすることがそもそも差別ではないのか?
・ 差別はなくならない、しかし減らすことはできると思う
・ もっとも同行した教員の多くは、文化人類学が専門であったり研究者の立場だったりするせいか、こういう感覚にやや異論があるようで、私の方がむしろ例外だったと思います。

長くなりました。ここまで読んだ方がおられたら、ご退屈様でした。