7日早朝に京都に戻り、8日には授業が2つ、また慌しい日々が始まります。

年末年始は、両方の両親の墓参、針灸、ホームドクター訪問、歯医者訪問・・・等、年相応に過ごしました。


5〜6日の週末は快晴で、1泊旅行をして、雪の八ヶ岳を存分に眺め、霧が峰の山小屋「コロボックル・ヒュッテ」に泊まりました。

ここは手塚宗求さんが50年以上も前に「当時無人境だった霧ケ峰高原車山肩に、日本で最も小さい山小屋」を作り、守り続けているところです。

以下、長野日報の記事からの引用です。

・・・・山小屋経営の傍ら、数多くのエッセーを著し、日本山岳会会員として霧ケ峰を全国に発信、ガイドや遭難救助活動などにも活躍した。手塚さんは1956(昭和31)年、24歳の時にそれまで何度か訪れた霧ケ峰に住みたいと、結婚したばかりの幸子夫人を伴って車山肩に入り、広さ33平方メートルの山小屋を建てた。電気やガス、水道のライフラインは一切なく、手紙、新聞も届かなかった。

 物資はバス終点から3.5キロの山道を背負子(しょいこ)で運び、ランプの燃料だった石油は歩くたびに揺れ、染み出て背中が一面炎症になった。「情緒的といわれたランプ生活は、どんなに不便で危険かを実感したが、半面、どんなにか感性を磨き上げて情操を育ててくれたか計り知れない」と回想する・・・・


 手塚さんはたまたま私と同じく、日本エッセイストクラブの会員で、すでにエッセイ集は17冊を超えているとのこと。但し本人はあくまで山小屋の主人を自認し、文章を書くのは余技でエッセイストと呼ばれることを好みません。

 たまたま妻が熱心な愛読者で、昨年の夏にちょっとだけ話をする機会がありましたが、夏はお客も多く忙しいので、暇な冬にゆっくり夜、酒でも酌み交わしながらいろいろ話を聞きたいという希望で、今回の山小屋宿泊となったものです。

 話は、著書に出てくるエピソードについてさらに詳しく伺ったり、山小屋暮らしの苦労や楽しみについて聞いたり、ランプの灯のもとで話が弾みました。


 独力で、誰も考えもしなかったようなプロジェクトを始め、50年以上も続け、その孤独な行動を通して、山や野鳥や草花や厳しい自然への接し方について、自らの生き方や考え方について、何らかのインパクトを人に与える・・・・


そういう意味では、手塚さんのような存在も「ソーシャル・アントレプレナー」という名前にふさわしいのではないか、と感じた次第です。