canary-londonさん、コメント有り難うございます。


予備選も大きな山場を迎えて、野次馬としては面白いですが、4日の新聞によると候補者は各州を駆け巡り、ヒラリー・オバマ両陣営あわせてこのためだけで19百万ドルものテレビ宣伝費を使ったそうです。大変なお金と時間とエネルギーを使うわけで、ちょっとやりすぎというか、民主主義というのはコストのかかるものだと痛感します。


それにしても、皆様のコメント通り、英語という言語の特性を改めて考えますね。


岩井克人東大教授が三浦雅士の質問に答える形の『資本主義から市民主義へ』という本は実に内容の濃いものですが、ここでの岩井さんの以下の言説を思い出しました。

・ ・・・先ほど、人間とは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使って、はじめて人間となる存在であると言ったわけですが、その人間にとっていちばん本質的なことは、そのような意味で人間をまさに人間とさせる言語・法・貨幣、とくに言語が、人間にとってはまったく外部の存在であるということなのです。・・・・(124頁)


言語が貨幣・法以上に外部存在であるとすれば、例えば英国に住むcanaryさん、米国に住む渡辺さんの場合、英語と日本語の間を行ったり来たりする日々を通して、思考や思想や生き方までが言語によって規定されるというような経験をしているのだろうか?とふと思いました。


他方で、いま面白く読んでいる渡辺靖慶応教授の『アメリカン・コミュニティ、国家と個人が交差する場所』は、カウンター・ディスコース(対抗言説)というキーワードを使ってアメリカ社会を読み解こうとしています。


・ ・・・社会の中に様々なカウンター・ディスコース(対抗言説)を擁していること。そうしたディスコースが絶えず生み出されては、せめぎあっていること。そして、それが許される<自由>。そうした<自由>を自己理解ないし運動律の核としている社会。それは、安易な烙印や批判を拒むと同時に、自らに足払いをかけながら、永遠に革命を続ける手強い社会でもある・・・・(34頁)


ここで著者は、アメリカ社会の特性が、歴史・文化・風土・環境等の中から生まれてきたことを示唆していますが、同じ言語を使いながら、英国とアメリカとで、社会システムが異なってくる、ということも起こりうる。


外部存在である言語と、社会や文化や歴史とは、いわばニワトリとたまごのように、お互いがお互いを規定し合っている・・・そんなところでしょうか。


それにしても、ソーシャル・アントレプレナーという存在や概念も、やはりアメリカ社会の「カウンター・ディスコース」の有り様に深く根ざしているように思います。


ベースボールと日本の野球が違うと言われるように、日本の「社会起業家」も、(残念ながら)ソーシャル・アントレプレナーとは似て非なる存在かもしれない、そんなことも考えました。


また、長く海外に居た日本人が帰国して感じる(懐かしさ・親しさと同じぐらいに)違和感も、言語を通して英語と日本語を行ったりきたりするという体験から来るのではないか?

私であれば、日常、英語を使わなくなって15年近く、良くも悪くも純粋日本人に近くなったような気がしています。


もし、そうだとすれば、バイリンガルとはどういう存在か?そもそも存在たりうるのか?言語をテクニックやレトリックとして操れる器用な人間にしか可能でないのではないか?


研究室で、時々、課題レポートを持ってくる学生を待ちながら、いろいろと答えの見つからない問いを自ら発しています。