先週の週末ですが、京都文化博物館で開催されている「源氏物語千年紀展」を見てきました。

週末でもあり、たいへん混雑しており、とうぜんながら中高年の女性が多かったです。藤原定家が書き写した写本など貴重な資料や絵画が展示され、10分ほどのビデオ上映もあり、映像ホールでは、源氏物語を原作にした古い映画が上映されていました。

作者である紫式部の日記の1008年11月1日に、源氏物語が宮中で評判になっているという記述があり、これが確認されているいちばん古い言及なので、節目になる今年を記念事業の年に定めたとのことです。

 あらためて講釈をたれるのも恥ずかしいですが、日記によれば、藤原道長の邸で、孫である、のちの後二条天皇の誕生50日の祝いの席が持たれた日。当代随一の才人とうたわれた藤原公任紫式部など女房たちのひかえている部屋を訪れ、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(ひょっとしてここには、「若紫」のような素敵な女性がおられませんか?)と冗談を言ったというのです。


 実は私は、物語そのものはまともに読んだことがありません。

高校時代の古文の時間に、冒頭の有名な部分を読まされた記憶がある程度。現代語訳が幾つも出ているし、約20カ国語に翻訳されているそうだし、最近は「あさきゆめみし」という全7巻のマンガまで登場したというのに。このマンガ、けっこうよく出来ているようで、自他共に許す古い京都人である従妹から「卓史さんなら、これを読んだらいいわ」と勧められました。雅の文化についてはその程度の教養の持ち主とみなされたのでしょう。


 もっとも、主人公の光源氏については、堺屋太一の『日本を創った12人』(PHP文庫)を面白く読んだので、ここでご紹介したいと思います。

本書は「今日の日本にまで深く影響を残している象徴的な12人の人物」を取り上げ」ており、聖徳太子から松下幸之助までが論じられます。中でも著者の独自の視点が目立つのが12人のうち外国人が1人、架空の人物が1人選ばれていることで、前者はマッカーサー、後者が光源氏です。

 なぜ架空の人物を選んだか。「光源氏ほど平安貴族または貴族政治家の原型をよく伝えている人物はいない」と著者は言います。「そしてそれが現代のわれわれ日本人のものの考え方や価値基準に大きな影響を及ぼしている」(52頁)。

一言でいえば、日本的な上品さであり、例えば光源氏の不遇時代の生き方に見てとれる。「不遇の時代にも光は決して堕落しなかったし」、「都を離れたわびしい田舎住まいを哀しみ、望京の念に涙しながら悶々と生きるが、(略)内面性での不満の克服のためにも美意識の世界に没入していく。それこそが当時の貴族のあるべき生き方であり、今日に至るまで日本における上品の原点ともなっている」(56頁)。


 他方でその後、都に帰って太政大臣にまで出世したからといって、政治に関心を持つわけではなく、美と恋の世界に生きる姿は変わらない。「意思決定をしない、(略)いわば無能だが上品な人の伝統」がここから生まれた、というのが著者の解釈です。


所詮、私たち庶民には縁遠い世界と思うか、いやいや堺屋氏の言うように、私たちの考え方にも影響を与えていると思うか、いかがなものでしょう。