9月はじめ、京都シネマで「ラストゲーム −最後の早慶戦」(神山征二郎監督)
を観ました。小さな小屋ですが、平日にも拘わらず、たくさん入っていて、
年配の観客が多かったです。

こういう映画は、年寄りには最初から涙腺がゆるみっぱなしで調子悪いの
ですが、てらいのない、素直なよい映画でした。

言わずとしれた、1943年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」を取り上げたもの。


その5日後に、神宮外苑で約7万人の大学生を集めての「出陣学徒壮行会」が開催され、
徴兵猶予を廃止された大学生は徴兵検査をうけて、入隊しました。


六大学野球はすでに禁止されていたが(野球は
敵国のスポーツだという理由で)、当時の慶応の塾長・小泉信三が早稲田の
野球部顧問の飛田穂洲を訪れて、非公式ながら「最後の早慶戦」をやりたい
と申しでる。飛田は早稲田の総長の反対を押し切って、試合を強行する。
試合には小泉塾長も姿を見せる。


終わって、早稲田の応援団から「若き血に」(慶応応援歌)が歌われ、慶応は「都の西北
(早稲田校歌)でこたえる・・・


小泉塾長がなぜ、同じ立場の早稲田総長に会わずに、飛田顧問に会いにいったのか、
不思議な気もしますが、どうも実話のようです。

飛田なら受けてくれるだろうと信じてのことか、学長が会う相手は学長といったことを
考えないのがいかにもリベラルな小泉らしい行動といってよいかもしれません。


私は中高時代、高校生の従妹に連れられて、よく早慶戦を見に行きました。
当時、若い女性には圧倒的に人気があり、たしかスター選手のブロマイドも
売られていたと思います。


慶応の平子場、河合、早稲田の末吉、福島・・何れもピッチャーですが、
もちろんいまや知る人もいないでしょう。

おかげで、両校の校歌や応援歌はいまでもそらで歌えます。風呂に入りながらひとりで
がなることもあります。


慶応の塾歌は信時潔作曲の「見よ風に鳴る、わが旗を」、早稲田の応援歌は古関祐司作曲
「紺碧の空、仰ぐ日輪」。


このほかに、早慶戦だけの応援歌が双方にあり(「よくぞ来たれり強敵早稲田・・・」など)、
試合に勝ったときだけ歌う「丘の上には、空が青いよ・・」なんていうのもあります。


小泉信三は経済学者で、いまの平成天皇の皇太子時代の教育係でもありました。

映画でも触れられますが、「最後の早慶戦」のちょうど1年前に一人息子が戦死しました。
慶応を出て、三菱銀行に勤務していたところ、海軍士官に志願したものです。

氏の「海軍主計大尉小泉信吉」(初出昭和21年、文春文庫)は「読書論」
岩波新書、昭和25年)とともに忘れられない名著の1つでしょう。

前者は何度も何度もページをめくっています。後者はこの夏、何十年ぶりに読み返しました。

内容をご紹介すると長くりますので、ここらで切り上げますが、
未読の方がおられたらぜひお勧めしたいのです。