ksen2009-01-22

17〜18の週末、生まれて初めて、沖縄・那覇に行ってきました。

といっても、某先生に同行しての仕事です。

琉球大学を訪れるというのが主目的で、法科大学院内の模擬法廷を拝見したり
キャンパスを案内してもらったりしました。

夕食は沖縄料理でなく、アメリカ村というところにある「トニー・ローマ
という米国が本場の骨付き肉のバベキュー料理で有名なチェーン店。
ビールに良く合う、典型的なアメリカ料理でなかなかの味です。基地に勤務する米国人兵士
の家族と思われるお客も多かったです。


上のお皿は1人前ですが、我々は3人で1皿で十分。

翌日は、大学の某々教授の案内で、ひめゆりの塔・平和紀念公園へお参り、首里城にも行きました。


私より、若い世代には全く理解できないと思いますが、私が今まで那覇を訪れなかったのは、
もちろん機会がなかったこともありますが、何となくその気になれないということがあります。
ちょっと僭越な、肩に力が入った言い方になりますが、沖縄には何となく「負い目」があるような、
あの人達の犠牲のおかげで今の私が生き延びているような、そんな思いが心の片隅にあるではないかと思います。



そんな訳で「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和紀念資料館」、正直言って少し気が重かったのですが、
同行者もおり、訪れました。

沖縄戦について皆様がよくご存知なことをここでいろいろ書くつもりは毛頭ありません。

資料館の展示を読みながら、あらためて感じたこと以下2点のみ。


1.沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒・教師が陸軍病院等に動員され、
大半が死亡した悲劇を読んで ――2つとも、難関中の難関校だった。各市町村から
1人入るか入らないかという狭き門だった・・・・もちろん、他の学校生徒も多く犠牲
になった訳ですが、ああ、やはりここでも優秀な日本人が死んでしまったんだという思いを
改めて感じました。生き残った我々は、17歳でこの世を去った多くの日本の若者の才能や
資質にはるかに及ばない、そんな日本人ばかりが生き長らえた・・・のが今の日本の姿ではないだろうか?



2.彼女たちは、個人で映画館に行くことは禁じられていた。年に2~3回、学校推薦の
映画鑑賞会があり、1941年夏には『駅馬車』(ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演)を観た。

その後は戦意高揚の戦争映画一本ヤリとなったので、
多くの生徒にとって初めてみる、しかも戦前最後に観た、外国映画だった・・・・


そうなんだ、彼女たちも『駅馬車』を観たんだ。

ジョン・ウェイン扮するお尋ね者のリンゴ・キッドが、酒場の女に淑女のように優しく接する場面を観て、
彼女たちはどんなことを感じただろう、少なくとも、数年後、自分達がこの国と戦う地獄に
巻き込まれるとは夢にも思わずに・・・と思うと不覚にも平常心ではいられませんでした。