「寛容」と「イエス、バット」の構え

ksen2009-05-20

我善坊さん、有り難うございます。

渡辺一夫、懐かしい名前ですね。

いまの若者はもう知らないでしょうね。


「寛容は不寛容に対して不寛容になるべきか?」
について、こんな難しい話を考える頭脳はありませんが、以下、蛇足です。

(実は、海太郎さんご指摘の「免疫の意味論」(多田富雄)は読んでいないので、
コメントできず、残念です。理科系の海太郎さんと違って、私にはフォローできるかなという
不安があって、やや敬遠しています)


1.「何を対象に考えるか?」で変わってくるのではないか?

(1)政治・政治信条か、文化・文明か?人間と社会か?

(2)政治であれば、カール・シュミットの「友敵理論」ではないが、
「寛容」たりえない場合がある(例えば、丸山真男のいう「ナチズムに対して」。

(3)人間や社会に対しては、「最低限のルールと礼節」を前提にした上での「寛容」は、コミュニケーション
=人間関係・社会、が成り立つ大前提ではないか。


(4)難しいのは「文化」と「文明」であって、こんな風に感じています。

・例えば、アメリカは「文化」に対して寛容(梅田望夫の云うように)、しかし「文明」には
必ずしも寛容ではない(梅田氏はここを見落としているのではないか)
これは「人工国家」「移民国家」であるアメリカの特性→アメリカは、移民の「文化」に対して
きわめて寛容であり、包摂する。
しかし「人工国家」である以上、「文明」でまとめて行かざるを得ない。


・対して、日本は「文明」には寛容だが、「文化」にはそうではない。


(5)我善坊さんのいう、「新自由主義が吹き荒れる現在、寛容は風前の灯・・」
というのは、アメリカ流の,「文明」への「不寛容」であって、「文化」への「寛容」は
健在なのではないか(日本は、少し違うかも・・・)


(6)ここで面白いのは、宗教をどう考えるか?です。
たまたま、『無宗教こそ日本人の宗教である』
島田裕巳、角川新書)という本を読んで、なかなか面白かった。

小冊子なので、ちょっと議論が粗いところは仕方ないが、問題提起はよく理解できる
し、何となく日本人であることに安心するのがよい。

ここで、私が考えたのが、近代において宗教は、「文化」ではなく「文明」ではないか。

だから日本人は寛容になり、アメリカ人はそうではない。



2.以上は、紙数の制約で舌足らずにならざるを得ませんが、

もう1つ大事なのは、「全ての答えが条件付きにならざるを得ない」ということ。


この「条件付き」というアプローチを、たしか加藤周一が書いていたと思います。

少し、逸れるかもしれませんが、私は、ゼミで繰り返し「Yes, But」が大事だと言っています。

これ、一般にコミュニケーションの方法について言われる訳ですが、私は、全てに
(自分にも他者にも社会にも)大事な精神の構えだろうと喋っています。


自分であれば、「まず自分という存在に、自分が存在していることに、ポジティブに臨むこと。


その上で、「しかし・・・」と自ら問う・・・・「自分はイエスだ、だけでは人間失格だよね」
「だけどイエスからスタートしようね」


そう若者に呼びかけています。