気になる日本語

柳居子さん、我善坊さん、土論汝さん、有難うございます。

「スッゴーイー」「語尾を上げるしゃべり方」「生き様」等々へ
の違和感、何れのコメントもまったく同感です。

近頃使われる日本語にいらいらしている方が多いんだなあと改めて感じました。



「生き様は決して使わない」というコメントにも共感。結局、
私たちにできることは、「自分は使わない」というささやかな決意しかないような
気がします。

テレビや週刊誌のマス・メディアは率先しているわけですから、庶民が抵抗したって無理ですよね。


10年も前に、故森嶋道夫さんが言っています。

「これからの時代は、家庭教育は両親ではなくテレビ局によって行われる。
日本のテレビ番組は視聴率極大の原理によってつくられ、極めて娯楽的―
しかも品の悪いーである。そのような状態の下で、立派な(政治)教育が、
今後日本で行われるとは考えられ難い」
(「なぜ日本は没落するか」P.146)



ということで気になる日本語ですが、私の場合、他人が使うのは気にならない
、というより「気にしない」ようにしています。

若者の「マジー!」でも「チョー・・・」でも、森嶋さんではないが「テレビを
見るな」と命令できるならともかく、これはこれでいいし、仕方がない、のでは
ないでしょうか。


ただし、土論汝さんが言うように自分では「使わない」。


前回触れた、「至福の時」もそうで、人が使うのは気になりません。
しかし、私は「使わない」。



そう簡単に(他人のことも考えずに)「私は幸せ!」と遠慮なく言い出したのは、
例の加山雄三の「僕は幸せだなあ!」という、「君といつまでも」の台詞からでは
ないでしょうか。昔の人は、自分が幸せだなあ!なんて厚かましいことは決して
言わなかった(もちろん「自分は不幸だ」とも、歯をくいしばっても言わなかった)と思うのです。


どうも、「至福の時」も「生き様」にしても、「スゴーイー」にしても、
日本語が大げさになってきたのではないかという気がします。



英語で言えば、イギリス英語からアメリカ英語の方がグローバル化したと
いうことでしょうか。


昔、アメリカ人の「絶対!(absolutely)「断じて(definitely)」、
それこそ日本人の「スゴーイー!(fantastic !))」といった大げさな表現に驚いて、
あの皮肉屋で「控え目な表現(understatement)」を好むイギリス人は使わない
なあと痛感したものですが、今は変わっているのでしょうか。


「至福の時」について補足すれば、17世紀フランスのモラリスト
ラ・ロシェフーコーの言葉を思い出します。


「(ほとんどの)人間は決して自分が思うほど幸福でも不幸でもない」
(マキシム49)


関係ないけど、週末、東京で、世田谷の豪徳寺を訪れ、井伊直弼の墓を詣でました。

「自らを不幸とも幸福とも思わなかった、典型的な、昔の日本人」のように
思われました。