『逝きし世の面影』(渡辺京二)

柳居子さん、お礼が遅くなりました。
相変わらず、博学で感心いたします。ご指摘の通り、「日本人が、穏やかで
卑屈でなく徳性の高い人たちだ」と幕末の外国人が異口同音に誉めている
ようですね。


第一印象が大事だとのご指摘もまったく言われる通りですね。
いま、誰が「顔を見て論じて」いるでしょうか。
話が逸れるかもしれませんが、ハーバード大学のサンデル教授の
「対話型授業」が大きな話題ですが、あれこそ「顔を見て論じて」
いますね。


同時に、最近個人的には反省もしているのですが、やはり裏付けとなる
勉強も大事だなということ。
例えば、中国の近代史・現代史について殆ど何も知らない私が、
この国について何か発言するのは、どうも気がひけます。
新聞程度の知識ではなく、もう少し真面目に勉強したいな、と痛感
しているところです。(新聞やテレビで専門家として喋っている人たち
が、どれだけの知見を持って話しているのか?)


昔、ロンドンやニューヨークに住んで・働いて、その国の過去や歴史を殆ど
勉強せずに、仕事したりゴルフを楽しんだりして、その国を理解したつもりで
いる、もちろん私を含めて、そういう日本人が多かったのではないか?
いま中国で働く日本人はどうだろうか?と思います。

『逝きし世の面影』(渡辺京二平凡社ライブラリー)に話を戻すと、
イザベル・・バード、医師ケンペルの他、オルコック、ハリスを始めと
する人たちが、短期間ではあっても自らの知見を大事にして、膨大な日本滞在・
日本観察の記録を紹介しています。
しかも特徴的なのは、柳居子さんご指摘の通り、「人々の顔から、抑圧された
陰の部分を見ない」・・・・


「(厳しい封建制と身分制のもとにありながら)当時の農民がおしなべて幸福で
安楽な表情を示している」ということへの驚きです。


この点は、今回、少し硬くなりますが、本書の読後感を整理したいと思います。


その前に1点、次回のKSEN(京都ソーシャル・アントレプレナー・ネット
ワーク)のイベントが決まりましたのでご案内いたします。
KSENツイッター入門〜」とは、刺激的な話題になりそうですね。
http://www.ksen.biz/modules/eguide/event.php?eid=36

ウェブ社会のこれからに興味をお持ちの方、是非お出掛けください。


ということで、『逝きし世の面影』です。
おそらく「日本の近代」というテーマに関心を持つ人にとって、評価するか
否かを問わず、必読の書物ではないかと考えます。

例によって長くて、すみません。


1. 著者は、1930年京都生まれだが、少年時代を北京・大連で過ごし、
「私はずっと半ば異邦人としてこの国で過ごした気がする・・・だから私は
この本を書いたとき、この中で紹介した数々の外国人に連れられて日本という
異国を訪問したのかもしれない。・・・私はひとつの異文化としての古き
日本に、彼ら同様魅了されたのである」(「あとがき」から)。


2. この異国体験と、18歳から4年半結核で療養した青春、もっぱら
「在野の思想家」としての後半生、が著者の基本的な姿勢に影響している
ようである。



3. 著者は、上記のように、江戸時代末期の日本と日本人とに魅了され、
「江戸時代に生まれ、・・・村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過ご
した方が自分は人間として今よりまともであれただろうと心底
信じている」(P.589)とまで書く。


4. しかし、同時に以下のように、著者の目は醒めているし、幕末・明治
初期の外国人が日本賛美と同時に、日本人の欠点(例えば、彼らを
大いに悩ませた「日本人の嘘」)を指摘している事実も落としていない。


・・・(本書で)古き日本が夢のように美しい国だという外国人の
言説を紹介した。・・・だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇示
することにはなかった。・・私はことごとに「日本」を問題にしなければ
ならぬ(いまの)状況にうんざりしている。私は「日本」などともう
言いたくない。ただ狭くとも、自分が所有している世界があるだけで
(いい)(P.586)

また
・・・私の関心は日本論や日本人論にはない。私の関心は近代が滅ぼした
ある文明の様態にあり、その個性にある(P.516)
私見:そういう意味で本書が帯に「日本人論の原典」とうたっているのは、
著者の想いを理解していないということになるのではないか)

5. つまり、それは、日本の近代化とともに滅びた、滅びざるを
得なかったという認識である

・・・日本近代が前代の(ユニークな)文明の滅亡の上にうち立てられたのだ
という事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たち
である・・(P.10)


・・・徳川後期文明――与えられた生を無欲に楽しみ、親和と幸福感、
気楽さと諦念に彩られた社会――は、ひとつの完成の域に達した、
しかし滅びねばならぬ文明であった(P.568)


6. なぜか?

―――いかに親和性に満ちた世界であっても、そして、いかに、失うものが大きく
ても、それは西欧の「近代化」の精神、ヒューマニズムを拠り所にする
「個」の自覚、といった文明に太刀打ち出来なかったからである。


ここにきて私たちは、当時の日本が、例えば、ゴーギャンや『宝島』の
R.L.スティーブンソンが見たタヒチとどう異なるか?そして、なぜ、
今の日本はタヒチとはるかに異なる地平に立っているか?という
疑問を感じざるを得ないのではないか
(渡辺氏は、この点について全く触れていないので氏がどう考えて
いるかは、本書では明らかではない。



5.最後に、ヒューマニズムと幕末日本人の心性とについて著者が語るところ
に幾つか耳を傾けてみよう。


ヒューマニズムとは、「人間を特別視する思想」であり、「個としての
たしかな証明」であるが、彼ら(徳川期の日本人)にとってヒューマニズム
まだ発見されていなかった(P.504)


・(彼ら)が病者や障害者などに冷淡だと見なされていたとしたら、それは
彼らの独特な諦念による。不運や不幸は生きることのつきものとして
甘受されたのだ(P.505)


・オルコックやブスケは、そういう個の世界を可能ならしめる精神的展開
がこの国には欠けていると感じたのである(P.575)

・(その代わり)ひとと生類とがほとんど同じレベルで自在に交流する
心的世界があった(P.516)


・(近代的な意味での「個」が彼らに欠けていた、それは)、ニヒリズム
中合わせの感覚といってもよい。・・・といってもこれは、明るいニヒリズム
である。人間というものを吹けば飛ぶようなものと感じる感覚は、一転して、
人間性への寛容となる。(P.579)



と言う風に、本書を断片的に紹介していっても、若干もどかしい気分に
なりますが、我々につきつけられているのは、繰り返しになりますが、


・日本の近代化とは何だったのか?
・そこで失われたものは何だったのか?
・その「面影」を追求することにどんな意義があるのか?


といったことでしょう。


個人的には、著者のように「自分が所有している狭い世界」をできるだけ
大事にしたいと思っています。
そこから全てが始まるのではないか。

いったん、中国だの、尖閣だの、検察だの、小沢さんだの・・・・を頭から
追い払ってみたらどうでしょう。
少なくとも、これらを時々の「現象」からではなく、「近代」と「歴史」
という視点で距離をおいて考えてみては?