「寄付白書2010」と寄付文化

asanoさん有難うございます。
http://asanoya.exblog.jp/12713402/
拝見しました。
それにしても、場所は比叡山の中腹ですか、大雪ですね。
東京は新年以来、寒いですがよく晴れた日が続いています。

本日は新年会があって、竹芝桟橋にある「インターコンチネンタル
トウキョウベイ」というホテルに行きましたが、眺めも青空も
申し分ありませんでした。

かつ、東京はやはり大都会だと痛感しました。

前回のブログでも紹介した、
asanoさんの本年最初のビッグイベント、1月23日開催の
「寄付文化」を育てよう、
「寄付でつくる地域の未来」というキャッチフレーズで
「おおみ未来ファンド」をスタートしようという想いと意気込みを
大いに応援したいと思うものです。


そこで私としては、日本における「寄付文化」について、
私なりに考えてみたいという気持ちがあり、
今回はその点を書いてみます。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20100419/1289795312

実は前にも書いたことがあり、そのフォローでもあります。
長くなるので、まあ自己満足の文章ですが・・・


1. まずは、議論の前提として定義が大事とすれば、「寄付」とは何か?
ですが
手元の「広辞苑第5版」によると「公共事業または社寺などに
金銭物品を贈ること」とあります。
ということは
(1) お寺や神社へのお布施・寄進等
(2) 町内会、母校、子供の学校など自分がお世話になっている
団体等の支援
(3)その他、自分には直接関係ないし、見返りがある訳ではないが
いわば「市民」として活動の趣旨に賛同して応援したいという寄付


因みに、本日の新聞は、
「日本ファンドレイジング協会が「寄付白書2010」を出した。
それによると、個人、法人を合わせた2009年の寄付の
年間総額が約1兆円に上る」と報道しています。


ここでいう「寄付」に何が入るかはまだ「白書」
を見ていないので分かりませんが、おそらく(1)は除外されて
いるのではないか。


2. これは私の感想で、客観的なデータをもとにしたものではありませんが
「日本には寄付文化が根付いていない。アメリカ等に比べて遅れている」
という理解は・・・本当にそうだろうか?


3.実は、仮説1:
伝統型の(1)や(2)の寄付は結構やっているのではないか。
広辞苑の定義に沿って、何らかの
見返りを期待する、寺社への寄進のような行為も「寄付」
に当たるとして)
この点を、高尾山での杉苗の寄進について上のブログで触れました
仮に、この仮説1が正しいとする。(間違っているかもしれない)
もう1つ仮説2−個人は、所得や資産の一定割合を自分で決めて
そこまでの「寄付」はすでに実施している
(これも間違っているかもしれない)。


この2つの仮説が正しいとすると、
仮に、(3)の「寄付文化」を増やしたいとすると
(もちろん、こういう想いを私としても全面的に応援するものでは
ありますが)
個人は、(1)あるいは(2)を削って(3)に振り向ける
ということにならないか。

つまり、「寄付」の中での「取りあい」が起きるのではないか?

4.それとも、
上記の仮説が間違っていて、個人は、まだ(1)プラス(2)
に(3)を付け加える「余裕」を持っている、としよう。
「寄付文化」を育てよう!という呼びかけは、既存の(1)(2)から
資金を奪おうとしているのではなく、新たな「支出」を
期待しているのだ・・・という議論もあるでしょう。


ということは、個人は、貯金、教育・教養、娯楽、趣味、衣食住、等
どこかを減らさないといけない。
果たして、それは可能だろうか?
それだけの「余裕」が市民・庶民にあるだろうか?

5.もう1つ、これは「寄付」とは異なる文化ではあるが、
日本には独特の「現金贈与文化」がある。
結婚祝い、ご霊前、お年玉、医者への謝礼、お茶・お花の師匠への
お礼・・・・等々
こんな大きな現金のやりとりは少なくとも私の知る限り、欧米にはない。

しかし、これもまた、一定割合の「現金支出」であり、
「寄付」支出に心理的・経済的ブレーキをかけているのではないか。


6.というようなことを、考えている次第です。


最後に、しかし、もっとも大きな疑問は、

・・・「1人1人の寄付行為を増やすこと、裾野を増やすことが
大事」というのは思想としてはよく分かる。
しかし、
本当に寄付金の効果を果たすためには、
市民意識の向上・草の根運動と同時に、高額所得者・高資産者に訴える、
いわば「巨艦砲撃作戦」
が必要ではないか?

この点も
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20100419/1289795312
に触れたし、紙数もなくなりました。


例えば、上の新聞記事によると、

昨年の1兆円のうち約5千4百50億円が
個人からで人数は約3千7百60万人、15歳以上人口の約34%との
こと。(単純平均すると、1人当たり1万4千円強)


他方でアメリカの個人の寄付は20兆円を優に超えているという。


ということは、いかに「市民」の寄付文化を変えようと
しても、仮に、残りの64%の個人も寄付層に取り込んだり、
1万4千円の平均を倍にしたりしても
(繰り返しますが、その意義を否定するものでは
毛頭ありませんが)、それだけでは不十分ではないか。
アメリカ人も実は庶民の寄付額はそんなに巨額でなく
大口客が支えているのではないか。

これは実は「所得格差」の問題にもからんでくる話で、ちょっと
紙数オーバーになりました。尻切れとんぼで恐縮です。


ちなみに、渋澤健さんという方は

アメリカのように、また戦前の日本のように、大きな「格差」
があっても、それが所得分配の「善い」偏りであれば
(つまり、お金が巨額に低所得者に流れる文化・仕組み
があれば)、許されるのではないか。
「格差は一概に悪」という発想の転換が必要ではないか
と書いておられます。