オルテガ「大衆の反逆」・西部邁・国家とは?

我善坊さん、さわやかNさん有難うございます。

今回もしつこく、オルテガ西部邁について補足します。

1. 西部氏を知る人は若い世代には少ないでしょう。
60年安保のときの全学連副委員長、もと東大助教
(社会経済学)、いわゆる東大駒場事件で辞職、以後保守主義
標榜する評論家。


2. 同氏は戦後の日本でオルテガを高く評価した最初の1人ではないか。
少なくとも私は、1981年のエッセイ「“高度大衆社会”批判
オルテガとの対話」(『大衆への反逆』所収)で知り、読み始めた。

例えば西部は以下のように紹介する。
・・・オルテガ的な精神は大衆によって扼殺(やくさつ)された。半ば無自覚
にではあったがオルテガ殺しの儀式があったにちがいなく、それ以後、大衆を
批判するのがタブーとなった(同書75頁)

・・・少し皮肉なことに、オルテガは知識人のための知識というものを
軽蔑し、大衆の真ん中にいようと努力した人である・・・“一緒に独りで”
いることの緊張に堪えぬく精神、それがオルテガのいう貴族・・・たることの
条件である・・

3.西部氏については最近は全くフォローしていませんが、
1980年代半ばの著作(例えば『幻像の保守へ』所収の「相対主義の陥穽」
進歩主義の末路」「福田恒存論、保守の神髄をもとめて」など)が
いちばん活躍した時期でしょう。

・・・たとえば、保守主義を特徴づける中庸もしくは節度の態度に
ついていえば・・・・「節度の逆説」というものが発生する。・・・
つまり節度を守り抜くには常軌を逸した熱意がならなければならない。
熱狂は保守主義のいみきらう態度であるが、熱狂を回避することにおいて
保守主義は熱狂的でなければならないのである・・・(同書39頁)


4.オルテガについても補足しておく必要があります。

『大衆の反逆』では“大衆社会批判”ばかりがよく知られていますが、
実は同書は、第1部:大衆の反逆と
第2部:世界を支配しているのは誰か
の2部構成になっている。

そして第2部は、真正のヨーロッパ主義者であるオルテガがヨーロッパこそ
彼の用語による「貴族」として復権する必要がありそのための未来は
ヨーロッパの統合にあるという主張が中心となる。
即ち、前回のAとBの区分けに沿えば、ヨーロッパこそBであり
その他の世界はAである。
再び、ヨーロッパが世界を指導していかねばならない、それは19世紀の
自由主義を守ることから始まる、ファシズムとボルシェビズム
マルクス・レーニン主義)は徹底的に否定されねばならない。
(ここで、彼は、社会や個人についてのA対Bという認識と図式を
第2部で国家にあてはめることになる)


5.まあ、こういう言説ですが、ここで重要なのが、
彼の「国民国家」観です。そこから「統合」の意義と可能性
が説かれる訳ですが、以下に(かなり多いですが)引用しましょう。

・・・国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる1つの
社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものだ
(P.220)・・・


・・・本源的に国家は、多種の血と多種の言語の統合にある。つまり国家は
あらゆる自然的な社会の超克であり、混血的で多言語的なものである・・・


・・・国家とは何よりもまず1つの行為の計画であり、協同作業の
プログラムなのである。人々が呼び集められるのは、一緒に何かを
なさんがためである。国家とは、血縁関係でもなければ、言語的統一体でも
領土的統一体でもなく、住居の隣接関係でもない。
それはダイナミズムそのもの――共同で何かをなそうとする意志――
であり、ゆえに国家という観念は、いかなる物理的条件の制約ももっていない
のである(P.233)

・・・国民国家(ナショナル・ステート)を形成したのは愛国心ではない
のである・・・(大事なのは)共通の未来である。その本質は、第1に
共通の事業による総体的な生の計画であり、第2はかかる督励的な計画に
対する人々の支持でである(P.231)

・・・国民国家はけっして完結することはない。国民国家はつねに形成の
途上にあるか、あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり、
第3の可能性は与えられていない・・・


・・・世界は今日、重大な道徳的頽廃(たいはい)
におちいっている。そしてこの頽廃はもろもろの兆候の中でも特に
どはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており、その起源は
ヨーロッパの道徳的頽廃にある。


・・・最後の炎はもっとも長く、最後のためいきはもっとも深いものだ。
消滅寸前にあって国境――軍事的国境と経済的国境――は極端に
敏感になっている。しかし、これらナショナリズムはすべて袋小路なの
だ・・・その道はどこにも通じていない(P.262)


・・・ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家(ネーション)を
建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。
そのとき、ヨーロッパはふたたび自信をとり戻し、真正な態度で自己に
大いなる要求を課し、自己に規律を課すにいたるであろう。


6.以上、まことに長々と引用しましたが、その理由は、以下にあります。

(1) どうも、オルテガ『大衆の反逆』の前半ばかりが喧伝されて
後半への言及が少ないのではないかとかねて考えている
(私の勉強不足で知らないだけかもしれないが、西部でさえ
まったく触れていない)


(2) ご紹介した、オルテガの国家観が、肯定するか否定するかは別にして
きわめて重要な意味をもっている

という2点です。

さらにそれは、
・日本の戦後の国家観はおそらく以上と対極にあるのではないか
(少なくとも、日本の国籍法の思想とは根本的に違う)

・戦後徹底的に否定された「大東亜共栄圏」という思想
をふたたび考察することに意味があるか無意味なのか

・中国の覇権主義ナショナリズムとが
警戒されているが、実はナショナリズムというより
(少なくとも一部の)リーダーはオルテガ的国家観を信奉しているのでは
ないか?

・これからの日本は、中国に対抗するためにも東アジアや太平洋の
諸国との協調をいっそう進めていかねばならないと言われるが、
それはこのような国家観とどう関係するのか、しないのか?

たいへん長くなりましたが、こんな妄想を追いかけております。