この国でおかしいと思うこと


さわやかNさん、十字峡さん、有難うございます。
今回は長くなるので、お礼だけで
コメントへの再コメント省略お許しください。


1. 日ごろ、ブログで「中庸」と「節度」を自戒している、
かつ時局と世相の話には興味ないと公言している年寄りが今回は血迷ったか
と言われるかもしれませんが・・・。


かつ以下の私見はおそらく少数意見で支持率1%もないと思う。


しかしどうもこの国おかしいと思うことを以下3点簡単に。


2. 私は与党も野党も減税日本も何も支持していない積極的ノンポリだし、
前原氏個人にもあまり興味ない。

(1)しかし、報じられている「外国人違法献金問題」でいま辞任すべきでない
と思います。


今日の新聞は「辞任論広がる」と報じ、社説は喜んで「けじめを今こそ示すべきだ」
と書いています。
日本人は自分のことは棚上げして他人とくに公人に対しては
「けじめをつけろ」「襟を正せ」と(建て前で)言うのが実に好きな国民ですね。

(2)本問題を論じるのは本当は
・法とは?
・法を守るとは?
法治国家とは?
・建て前と本音とは?
・私人と公人とは?
といった諸点を論じる必要があり、とても紙数がありません。

(3)かりに百歩譲って、氏が厳罰に値するとしても、どうして待てないのか?
「本件の時効を中断して1年先に進退を含めて議論しよう」あるいは
「いまは課題に全力に当たってもらい1年後に辞任してもらう」とどうして
ならないのか?
(皮肉で言えば、日本人は熱しやすく冷めやすいから、何でも今は騒ぐ
が1年経ったら
みんな忘れて問題でなくなってしまう、だからいま辞任だ、となるのではないか)
 

(4)少なくとも、「いまそんなことを国会や政党同士で
議論している時か?国益は何か?」と考えている日本人はいるの
だろうか?
中東、NZ地震,中国、原油高騰、予算、アメリカ(基地)・・・はどうするのか?
諸外国はどう思うだろうか?
クリントン国務長官は「また別の人間と基地問題を話し合うのか!」
と呆れて物も言えないのではないか。


(5)なお、この問題は、柳居子さんのサイトもご参照ください。
http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/diary/201103060000/


3. 次に、入試問題のカンニングについて
(1) 本問題も、これは話題になっている大学だけではなくて、
学校の入試一般の問題であると思う。

(2) この点も以下のサイトを見てほしい。
またフェイスブックのコメントも参照してほしいが、
http://mytopgun.exblog.jp/14367482/

http://www.facebook.com/profile.php?id=100002034153468#!/permalink.php?story_fbid=130698810335372&id=100001857614043

いちばん大事なのは、そもそも
・受験生が感動するような問題を出しているか?
・そもそも入試に教員がどれだけ
知恵とエネルギーを掛けているか?
・事前の記憶力頼りの試験問題ばかり出していていいのか?

以上を真剣に考えれば、そもそもカンニングの出来ない
入試はできるのではないか。


もちろん学校側の負担は大きく、そんなこととても出来ないという理屈もわかるし、
小さい学校だから出来るのではないかという反論もわかる。
またアメリカの真似をして私立大学の一部で「AO入試」というのを始めたが、
必ずしもうまく行っておらず、定着していない。


しかし、それでも、上のブログにあるようにICU付属高校ではやっているし
(ブログの題は「日本一の入試問題」)、
ICUの昔の入試はそうだった。
(独自の適正検査と論文と面接だけで
記憶を鍛える必要もいわゆる塾の受験勉強も不要だった。
論文はたしか1時間長い文章を読まされて、そのあと、取り上げられて
1時間何でもいいからそれについて書け、という試験だった。

これじゃ、カンニングできない)

犯人を弁護するつもりは毛頭ないが、少なくとも私立大学だったら
一芸入試」の特別枠の追加で合格させる、というユーモアぐらいあっても
いいのではないか。
(日本はこの程度の冗談を言っても「襟を正せ」と怒られるかな?)


4. 最後に、3月5日の東京新聞に出ていた、
某「宗教評論家」(それにしても面白い職業ですね)のコラムについて。

(1) まず“「がんばれ」は地獄の言葉“という見出しに驚いて読んでみたら以下の
文章があった。

・・・「がんばる」といった言葉は、競争社会で必要とされる言葉です。
競争社会というのはある意味で地獄です。だから、「がんばる」は地獄に
おいて使わる言葉です。

資本主義社会は本質的に競争社会です。自由競争がタテマエになっていますから
・・・・A社もB社も損をしないために「がんばる」必要があります。


・・・企業のような競争原理に立脚している場所においては
・・・やむを得ないでしょう。
けれども、それを家庭にまで持ち込んではいけません。家庭においては、
「がんばる」を禁句にしたいですね・・・・

(2) えっ!
これまた私は少数派かもしれませんが、
――家庭も(学校も)競争社会ではない!
だから芝居ではみんなが白雪姫になり、桃太郎になり、徒競争
(そもそも言葉自体が使えないのか)ではみんなが1等になる・・・・
徒競争で「がんばって」はいけない!
サッカー高校野球久御山高校は「がんばって」はいけない。


(3) 人間社会は、競争と協調のバランス、自己実現の追求と
他者への共感(シンパシー)とのバランスのもとにある、というのは
アダム・スミスを持ちだすまでもなく、常識と思っていた年よりには、
何とも不思議な言い草に思えてなりません。


(4) オルテガは『大衆の反逆』でこう言っています。
「生きるとは、何かに向かって放たれていること、1つの目標に向かって
歩くことだ。そしてその目標は、わたしの道程でもなければわたしの生でもない。
それはわたしがわたしの生を賭けるもの、したがってわたしの生の外に、彼方
(かなた)にある何物かである・・・」


オルテガは、怠け者の・冴えない私に向かって
「それでも、がんばれ!」と鞭を振るっているのだと思います。
これが、人間の究極の「がんばり」ではないでしょうか。

(5) ちなみに、「がんばる」を私の和英の辞書で引いたら
“TRY HARD (努力する)”“DO ONE’S BEST(最善をつくす)”
とありました。某氏によれば
日本の家庭ではこれは使ってはいけないそうです。