福澤諭吉を読む、まず『福翁自伝』


さわさきさん、さわやかさん、有難うございます。

何れも私の対福澤の問題意識と重なり、同じようなことを考えるものだと感じています。

ということでこのブログ、これから福澤さんがしばしば登場するだろうと思います。


1. まずは、『福翁自伝』ですが、ゼミの先生の課題は「自分で読んで、どこが面白かったか?発表せよ」でした。


2. 確かに「自伝文学の傑作」(小泉信三)と評されるように実に面白い。

私が書いたのは以下のようなことです。
すべてが面白く、どこか1か所を取り上げるのが難しい。そこで逆の発想から「福澤が自伝で書かなかったことは何か?なぜか?」を考えてみると、
(1) 宗教観・倫理観
(2) 先祖・ルーツのこと
の2点ではないかと思う。


3.宗教について「自伝」で言及されるのは
(1)良く知られた少年時代の逸話―「稲荷様の神体を見る」(岩波文庫P.26~27)
・・・お稲荷さんの社の中に何が入っているか開けてみたら石がある。
これを捨てて別の石ころを入れておいたら皆が相変わらずおがんいる、おかしかった・・・

(2)最終頁「生涯のうちに出来(でか)してみたいと思うところは(略)仏法にてもヤソ教にてもよろしい、
これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすること・・・」(P.390)
の2か所のみである。


4. 福沢自身は宗教・倫理を自らの行動指針・価値観としては、まったく意識していないようにみえる。
P.390も宗教の効用を「民心を和らげること」にしか置いておらず、注目される思考態度である。
しかも仏教でもキリスト教「でもよろしい」のである。

5. これをほぼ同時代(福沢は1835~1901)
の例えば、渋沢栄一1840年生)新島襄(1843年)麻布中学の創設者・江原素六(1842年)
少し時代は下るが内村鑑三(1861)新渡戸稲造(1862)等と比較すると、
福沢の西洋文明に対する姿勢は際立って実利的・現実的である。
西洋文明の摂取に生涯を賭けながら、キリスト教にいっさい関心をもたず、
例えば内村鑑三のように自ら、これと格闘し、悩み、煩悶したあとは全く見られない。


6. 福沢の「近代化」とは「文明開化」であり「富国強兵」であり、西洋のシステムを導入し、
個人および国家の「独立自尊」を図ることにあった。

彼の、個人と国家の「独立」を守ろうとする危機意識の強さとそのための努力は十二分の敬意と評価に値する。
しかし彼の求める「近代化」には、西欧の近代が中世のキリスト教思想との格闘を通してかちえたものであり、
「西欧市民社会」とはある意味で、「極めて特殊で地域的カルチャーという性格ももっている」(渡辺京二)と
いう問題意識はなかったのではないか。

その結果、近代日本が「文明開化」と「富国強兵」によって得たものが実に大きいことは言うまでもないが、
失ったものも大きかったのではないか。――福沢を反面教師として、日本の近代化が「ひとつのユニークな文明の滅亡を意味した」(同)ことに対して、我々はもう少し自覚をもつべきではないだろうか。


7. というようなことを書きましたが、これは4月28日。
まだこの時点では福澤への批判意識が強く、渡辺京二さんを引きずっているなど、
自分でも面白いなと思いながら、読み返しています。


8. 最後に、『福翁自伝』に英訳があるか?という話題がゼミで出ました。
そこで、アマゾンを調べてみたのを披露しました。

簡単にこの点にも触れます

(1)2006年コロンビア大学出版局から出ている(最初のアメリカでの出版は同じ所から1966年)


(2)訳者はEiichi Kiyooka (よく知らないが福澤の子孫のよう)


(3) アマゾン購読者がメールで寄せたコメントは11名でうち7名が満点の星5つ。

(4)11名から想定される読者は、(日本の)研究者か、大学の授業で指定されて読んだ学生のどちらか。

(5)「授業で指示されて仕方なく読んだところ、面白くて2回読んでしまった」
「大学の授業で指定されて読んだ本の中ではベスト。読んで実に楽しい。」
「彼を我が家のディナーに招待したいくらい!」
なんていうコメントもある。




(6)「優れた文章家である。彼にとってはペンが武器(サムライの刀)だったのだ」


(7)「福澤は日本の100ドル札に印刷されている人物。その意味では、ベンジャミン・フランクリン
に相当する(彼は100ドル、ちなみに、リンカーンは5ドル札、ジョージ・ワシントンは1ドル札)」


ゼミでは「なぜ福澤が1万円に登場するのか?」で本筋から逸れた議論で若干盛り上がりました。