Arz2beeさん、コメント有難うございます。
大胆な発言は大歓迎です。
1. ご指摘のとおり、福澤諭吉という人物が、なぜ、幕末から明治初年にかけて、かくも「原理主義」に捉われなかったか?というのは私にもよく分からないのですが、非常に興味があります。
得てして、「革命の時期」には原理主義が幅を利かすのに、この時期の日本は、イデオロギーの対立が比較的少ない、それは日本人の国民性もあるでしょうが、彼の存在もそれなりに大きかったのではないかという気がします。
例えば、前にも書きましたが、同じ、下級武士出身であっても新島襄や内村鑑三との違いはまことに大きい。
2. その理由はよく分かりません。
ただ、『福翁自伝』を読むと、生来の性格を中心に、
いろいろと見えてくるところもあります。
(1) 少年時代から「神仏」に頼むところが無い点は前回も触れました。
(2) 生まれつき、手先が器用な人だった。大阪に学んでも、暇があると「やすり」や「かんな」を買ってきて自分でも作ろうとした。
(3) 大阪適塾での学びは、もちろんオランダ語の習熟ですが、教科書は医学や物理学の本が中心であり、かれは自ら、本を読んで、実験のようなこともやっている。つまり理科系の思考の持ち主のようである。
(4) 理科系といっても文章のうまさは卓越している。話もうまく、喋るのも好きだった。ただし、「書生流儀の(いわば、青臭い)議論ということをしない。」「どうあっても勝たねばならないという議論をしたことがない」
(5) 芝居だの音楽だのといった文化・芸能・遊興には興味がない。大阪から江戸に出て、6年目にやっと上野に花見に行った、芝居は1度か2度しか観たことがない・・・・・
(6) 金銭については律儀かつ慎重であり、(5)も関係するが無駄遣いをしない。
(彼は当時、有数の資産家の1人であったようである。しかも、親の遺産ではなくいわば筆1本で自力で稼いだお金であり、しかも自らの贅沢や子孫に残すことは考えず、もっら慶応義塾その他の事業存続に使ったようである)
(7) 目的のためには、多少の手段を選ばないというところがある(『自伝』には、高価なオランダ語の本を大名から借りて無断で書き写してから返したとか、便宜を図ってもらうために、国許から偽の手紙を書いて携えた、というような逸話が紹介される。
(8) 臆病・慎重であり、とくに幕末から明治初めに横行した暗殺に対して、まことに用心深く対応している。
といったような人物像が浮かびあがってきます。
もちろん、飛び切り、頭脳明晰な人だったのでしょうが、こういう風に、原理・原則や哲学・宗教といった、形而上学には興味がない。
手段としての「学び」に専念し、あれこれ悩まない。だからこそ、あれだけ、オランダ語から英語へと語学に熟達して、当時群を抜いた、西洋文明の知識を身につけることが出来たのだろうと思います。
3. こういった、本人の性格に加えて、
(1) 大阪の緒方洪庵の塾で学び(塾長になり)、江戸と違う「大阪」の文化で暮らしたということも影響しているでしょう。いうまでもなく大阪は商都であり、江戸のような「官」「べき論」の世界ではない。
(2) それと、最初の洋行先がアメリカということもあったでしょう。
arz2beeさんご指摘のように、実用主義の本家、アメリカに行き、わが意を得たりという経験が多かったのではないか?
『自伝』には1860年、咸臨丸に乗り込んで、初めてアメリカに行ったときのエピソードがいろいろ出てきます。
その1つに、「ワシントンの子孫如何と問う」という1節がある。
・ ・・・あるアメリカ人に「今ワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが、その人の言うに、ワシントンの子孫には女がある筈だ。今どうしているが知らないが・・・といかにも冷淡な答えで、何とも思っておらぬ。これは不思議だ。
もちろん、私もアメリカは共和国、大統領は4年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、こっちの脳中
には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答えに驚いて、これは不思議と思うたことは今でもよく覚えている・・・・・
福澤先生、もちろん不思議にも思ったでしょうが、自分の生来の思考や行動にマッチした国が広い世界にはあるのだと強く感じたことでもあるでしょう。
4.ところで、
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20110708#c
のブログで、福澤諭吉について初めて触れて、1万円札より千円札の野口英世やその前の漱石のほうがよほどお会いする機会が多いと書きました。
その際、我善坊さん、さわやかNさん、柳居子さんから、どうも、漱石と野口英世の写真がやや不自然ではないか、ひょっとして偽札ではないか・・・という面白い指摘をいただきました。
いま、このブログを書きながら思うのは、
やはり、福澤諭吉は1万円のお札に登場するのにまことのふさわしい人物であるという感想です。
だから、かれの肖像は、一向に不自然ではなく、堂々としているし、おそらく本人そのものではないか。
これに比べて、漱石も野口英世も、どうもお札に登場するのは本人が恥ずかしがっているようにみえる。「俺、いやだよ」という表情が出ていて、そこから「どうも、この顔はおかしい」と皆様が鋭く感じ取ったのではないか?
どうも1ヶ月近くたって、コメントのコメントをさせていただきます
ところでアメリカのドル札(いま、国債の格付け引き下げでゆれていますが)はどうでしょうか?
写真は、1ドルがワシントン、5ドルがリンカーン、100ドルがベンジャミン・フランクリンです。
ベン・フランクリンがやはりいちばん堂々としているように見えますが、リンカーンの写真は、「5ドル札ぐらいがふさわしかな」と語り掛けているようにも見えます。