福澤諭吉とアメリカ・ヨーロッパ

1.前々々回のブログで福澤諭吉実用主義的な思考にふれ、同時に彼が明治時代の有数な資産家であったこと、それも遺産を継いだわけでなく、『西洋事情』などのベストセラー作家等の自力の収入で資産をなしたであろうと書きました。


2.その点で、ベン・フランクリンに代表される、アメリカ人の好きな「自立独行の人(SELF MADE MAN ))であった訳です。


3.彼は大阪適塾オランダ語を学び、江戸に出て独学で英語を学んだ。そして、
(1)1860年、咸臨丸に乗ってアメリカへ(約2ヶ月)
(2)1862年、幕府の遣欧使節に従い、フランス、イギリス、ドイツなど欧州へ(約1年)
(3)1867年、幕府の軍艦受取の一行に加わり、再び渡米(約6ヶ月)

と、幕末に3度、海外に出て(当時の日本人としては異例の体験)、その知識・見聞が彼の思想の大きな柱になっています。



4.ところが、明治になって、もっと簡単に西欧に行かれるようになったのに、以降、一度も海外に出かけていない。

例えば、ご承知のとおり、明治政府は、1871年岩倉具視特命全権大使とし、木戸・大久保・伊藤など加えた48人からなる代表団を、2年弱をかけてアメリカ・欧州へ派遣しました。

「まさに現政府を二分した、それも最も活発な部分が長期間海外に滞在するという、世界史でも空前絶後の試みであった」

福澤諭吉は、もちろん、この「岩倉使節団」にも加わっていない。



この点は、世田谷市民大学のゼミでも米山先生から
「なぜ福澤は明治以降、海外に行こうとしなかったのか?」という問いを投げかけられていました。


5.そこで、ゼミで発表した私見をここに報告しておきます。



(1)そもそも、当時、西欧に関して福澤ほどの知識を有していた日本人はまず居なかったのではないか。


しかし、言うまでもなく彼は西洋心酔者ではない。

彼はもっと醒めた眼で欧米を見ていた。そもそも彼は旅行を通して欧米を好きになったのか?どうもそうは思えない。


(2)ここで丸山真男のロジックを借りると、丸山は福澤の思想を以下のように要約している

・ 「価値判断の相対性の主張・強調」(『福沢諭吉の哲学』P.71〜)

・ 「福澤の思想および言動を「演技」としてとらえなければいけない。・・・(演技  とは役割の意識であり)これ(役割の意識)がつまり、彼がしばしば言う「職分」です」(「福澤諭吉の人と思想」P.192〜)

・(したがって)自分が酒が嫌いであっても(必要があれば)酒屋を開かないといけない・・・・西洋は恐るべき敵だからこそ西洋の文明に学べ、貪欲に西洋から学べという命題になるわけです」



6.

なお丸山は、上に触れた文章の直前で福澤が維新前に3度外国に行き、維新後は1度も行っていないことを指摘して「彼のヨーロッパに対するイメージは、その時(維新前)できあがっていて、それが彼の西欧文明にたいする原体験になった」と指摘しているが、なぜか?についての意見は披歴していない。


「いつでも西洋へ行ける時代になった維新後には、1度も外国に行っていない」(丸山)
なぜか?
以下、私の仮説です。


(1)福澤にすれば「すでに見るべきものは見た。見たものを通して伝えるべきことは伝えた。即ち、「職分=役割」を果たした」という意識ではなかったか。


(2)更に言えば、今更、岩倉使節団のように何もしらぬ連中と一緒に長期間、外国旅行をともにすることには意味を感じない、という醒めた気持ちもあったのではないか。


(3) おそらく福澤は、西欧の「進歩」には関心を持つが、「変化」には興味がない。また、再訪して過去を懐かしんだり、旧友と再会を楽しんだりという思いもさほど強い人物ではない。(感傷とは縁の遠い人間?)

(4) 従って彼が現在、生きていたら、西欧ではなく「進歩」しつつあるインドや中国に出かけたのではないかと思うが、どうだろうか?



7.来週、京都の古巣の大学で1週間、アメリカの話をしてきます。


いま、アメリカはどうも人気がないようで、とくに日本の若者は興味を持っていないかもしれない。
そんな状況と福澤諭吉とを重ね合わせて、私自身、考えてみたいと思っています。

まさに福澤がそうであったように、心酔する必要はない、しかし「学ぶ・知る」必要はある。

そこが、どうも今の若者に不足しているように思うのですが、どうでしょう?