古典を読む−秋澄みて日がな丸山真男読む


1. 柳居子さん有難うございます。まさにご指摘の通り「東叡山寛永寺」ですね。江戸を幕府の本拠とするに当たって京都を強烈に意識したのでしょうね。
写真も清水寺を模したそうです。
2. 我善坊さん、「西郷さんの銅像がなぜ上野にあるのか?」はご尤もな疑問ですね。


前回に書いたように、上野公園を新政府の近代化のシンボルとして国民に開放した場所にしたかった。
そこに、国民的人気の高い西郷さん銅像の話が持ち上がって、皇居前(いまも忠臣楠正成がいる)という訳にもいかず、ここを選んだ。
幸いに、西郷さんは明治憲法制定時に恩赦をうけて明治天皇から正三位を追贈されて朝敵ではなくなっている。
この銅像宮内省から500円の下賜金が出て、2万5千人の寄付によって、明治31年{死後21年}建立されて(高村光雲作)、除幕式には、山県総理大臣以下、錚々たる貴顕が列席したそうです。
・・・というようなことでしょうか。


3. 話は変わりますが、我善坊さんの名前が出たので、同氏の「敗戦忌、日がな丸山真男読む」という句をまことに気に入っております。


もちろん「敗戦忌」は丸山の命日でもあり本当はこの5字は外せないはずですが、この上5句にいろいろ入れてもそれなりに思いが通じるかも・・・ということで、いまなら「秋澄む」というパクリにしたものです。(勝手な言動をお許し乞う)


というのも連休の秋の好日、蓼科は八ヶ岳山麓に過ごして、丸山真男の『「文明論之概略』を読む」(岩波新書・全3巻)をもっぱら読みました。

ちょうど稲の刈り取りの時期で、秋空も澄み、山の姿もおだやかで、まことに気持ちのよい里山にて読書も進みました。

4. 世田谷市民大学という世田谷区民のための講座に通って、福澤諭吉を読むゼミに参加したことはこのブログでも書きました。

春学期に「福翁自伝」と「学問のすすめ」を終わり、秋学期はいよいよ彼の主著である「文明論〜」に入ります。
並行して、優れた解説書である丸山さんの本も読み始めたという訳です。


冒頭に氏は、こう書いています
「戦前から何回とかそえきれないほど繰り返し愛読し、近代日本の政治と社会を考察するうえでの精神的な糧になったような、日本人による著作はほかになかっった」
また、

「福澤惚れを自認する私のまずしい解説」だが、「とことんまで惚れてはじめて見えてきた対象の真実」というものもある・・・・

5. 丸山さんがなぜ福澤にここまで惚れたのか?
(例えば、いまだに「福澤の未来構想は、文明開化、殖産興業、富国強兵であった」というような短絡的な理解がある ――本年1月1日付東京新聞での山折哲雄氏の発言――なかで、自他ともに許すリベラリストの丸山さが、なぜ?)


これも西郷さんと上野のお山と同じく興味深いテーマですが、それは措いて、
今回は、「古典の読み方」について触れて終ります。


6.「〜を読む」の上巻は「古典からどう学ぶか」という序文から始まり、

まず古典を学ぶ意味について、自分自身を現代から隔離することにある。
因みに「隔離」とはそれ自体が積極的な努力であって「逃避」ではない、と氏は言う。
例えば、政局や新聞が毎日書き立てることに「距離を置く」ということも、1つの「姿勢」ではないのか。

次に、古典との付き合い方について
(1) 先入見をできるだけ排除して、虚心担かいにのぞむこと
この点で氏は、福澤の例をあげて、「彼は「愚民観」を脱しなかったので、民主主義者として不徹底だった」というようなイメージの危険性です。

(2) 同時に、最大の敵は、「早呑み込み」の理解である。

付け加えてこうも言います
「一をきいて十を知るという私たち日本人の世界に冠たるカンの良さは、古典とじっくり対面する場合にはかえってマイナスに働くことがすくなくありません」

ここでも例をあげて、福澤の強調する「価値判断の相対性」という精神の構えが、実は

「読み進むにつれて」・・・「あれも結構これも結構といって態度をあいまいにするとか、どうせどっちに転んでも大したちがいはない、といった傍観あるいはシラケ相対主義とは正反対の意味合いを持っているらしいぞ―――という見当くらいはつくと思います」


7.「古典をどう読むか?」という点で、またまた我善坊さんを思い出したのですが、

先般同氏から頂いたメールに
(1)「古典はその時代状況の中で、読むべきである
現代の眼で評価するのは良くない」

という意見がありました。
これ、まったく同感です。
ただ、このところ、福澤諭吉という思想家の「古典」を読み続けている私は、この(1)に加えて以下のようなことも考えています。

(2)「古典には、時代状況を超えて、普遍的に訴えかけるメッセージがある。だからこそ古典たりえている」

(3)「時代状況の中で書かれた以上、現代の眼で評価して、あまり適切でないメッセ―ジもとうぜんに含まれている・

(4)「古典を読む楽しみは、(2)と(3)とを読み分けることにある。
もちろん、読む人によって、これは(2)でこれは(3)という理解は異なるはずである」


まあ、こんなようなことです。


8.今回も、やや硬い話になりましたが、福澤を読む楽しみには、その中に、私が「時代を超えて普遍的に考えるべきメッセージ」を見出す喜びでもあります。

1例をあげれば彼が繰り返し主張している

「自由の気風は、ただ多事争論の間にありて存するものと知るべし」というような、彼の「精神の構え」です(第2章「西洋の文明を目的とすること」)。


彼の想いが伝わってくるような気がしませんか?
八ヶ岳山麓はすでに十分に寒く、暖炉の火を愛する我が家の猫も「自由」の気風に満ちております。