住友コレクションの中国絵画

1. いつもながら、Nさん、我善坊さん、柳さん有難うございます。
柳居子さんには、またブログでご紹介頂きお礼申し上げます。
Nさんの「福沢の土台は蘭学の教養である」もその通りでしょうね。それにしても
このブログ、少数メンバーのサロンのような雰囲気になってきました。
これはこれで十分楽しいですが、福澤はさらにフォローするとして、少し話題を拡げましょう。


2. ただ、ディレッタント(dilettante)について一言。
手元のオックスフォードの英々辞書(アドバンスド・ラーナーズ)によると、エリートと同様に
「(しばしば)批判的に、嘲笑的に」とあります。
いろいろに使われるのでしょうね。
私は深い意味で使ったのではなく、丸山真男が本来の学識の他に、クラシック音楽アメリカ映画の趣味があり、
他方で福澤が、自分は歌舞音曲のたぐいには一切興味がないと言っていることを対比したつもりでした。


3. 話題を変えて、京都の話です。
先週の週末にかけて久しぶりに数日間、滞在しました。
15日(土)には、災害ボランティアについて報告を聞く機会があり、これも記録しておこうと思いつつ、
日が過ぎました。
当日の議事進行をしてくれた田中さんが早くもブログに載せて頂いています。
http://mikko-t-0513.blog.eonet.jp/default/2011/10/ksen.html

私も、今回に続けて報告するつもりですが
(それにしても、田中さんも柳居子さんも毎日更新している真面目さには本当に感心します)
まずは翌16日(日)のこと。
14・15の両日はかなり強い雨でしたが、日曜日はすっきりした秋晴れでした。


4. 御池通り「進々堂」で朝食のあと三条通りを歩いて、東山まで散歩しました。
新京極にあった「紀伊国屋書店」が閉店になっていました。
おそらく、4〜5年しかやっていなかったのではないでしょうか。
本の品ぞろいが中途半端で(繁華街という場所柄仕方がなかったかもしれないが)売れ筋の、派手な本が中心で、
あまり私の好みではなかったが、それでも一抹の感慨はあり、
おまけに建築計画の表示によると、あとはパチンコ屋になるようです。


5. 岡崎公園の市美術館は、ワシントン・ナショナルギヤラリーからの展示とフェルメールをやっていて、
たいへんな人ごみでしたが、こちらは敬遠。

前の日、「イノダ」の朝食時に柳居子さんから頂いた切符で、鹿ケ谷にある泉屋博古館でやっている
「住友コレクションの中国絵画」という特別展を見てきました。
こちらは人も少なく、静かでした。

住友財閥の15代とその長男で「健康に恵まれず生涯思索の日々を送った美術収集家の」住友寛一氏のコレクションです。


15代は西園寺公望の弟が養子に入ったそうで、寛一氏は公望の甥にあたります。
それこそ、本物のディレッタントかもしれませんが、
重要文化財の、中国・八大山人の「安晩帖」20枚のうち「叭々鳥(ははちょう)」という水墨画が展示されており、
とても気に入りました。
] 私にしてはまことに珍しいのですが、2000円で色紙を購入して、
いま東京の我が家において眺めております。


6. 八大山人(1626〜1705)という人、初めて知りましたが、
中国・明の王族の出身。
明が清に滅ぼされたあと、「清王朝に与することを避けて僧侶として長年過ごしたが、60歳ごろに還俗、以後、
画三昧の暮らしを送ったという」。


安晩の語は、4世紀に生きた山水画の画家が「晩年、体が弱ると帰宅し、遊歴した各地の名山を自室の壁に描き、
日々眺めて楽しんだ」という故事にちなむ言葉だそうです。


この絵は解説によると、


「(鳥が)眠っているのか、瞑想しているのか。思わせぶりの姿は、しばしば画家の
孤独とうっ屈の精神が重ねあわされる」

とあります。
病弱だったという寛一氏もこの絵を愛したのではないかなと思いました。
柳居子さんのおかげで、良い時間を過ごすことが出来ました。
有難うございました。

7. 因みに、ディレッタントとは少し意味が逸れるかもしれませんが、
「教養人」という言葉を思い出しました。

これについて、「自由論」で有名な英国のジョン・スチュアート・ミルが、
「真に教養ある人間とは、すべて(エブリシング)について何事(サムシング)かを知り、何事かについては
すべてを知る人間」
と定義しているそうです。


これは、丸山真男さんが『「文明論之概略」を読む』で紹介しています(上巻44頁)。

因みに、丸山さんはこの言葉を中国の「君子」と対応させて、こう言っています。

――君子というものは専門家であってはいけないのです。
有名なウェーバーが引用している、論語の「君子器(うつわ)ならず」。
1つの専門のエクスパートは君子ではない。器というのは君子が使うものであり、
専門家というのは君子が使うものなのです・・・・

丸山さん、もちろん自分を「君子」になぞらえている訳ではなく、
福澤のような維新の知識人にはそういう面があったと言いたいようです。