『赤頭巾ちゃん気をつけて』と心優しき知性

1. さわやかNさん、笑み麗しさん、有難うございます。
Nさんとは、引き続き同じ関心を共有する学徒として(当方は老書生ですが)
ともに学んでいきたいと思います。


2. 笑みさんにはご挨拶もせずに恐縮です。英国で見事博士号を取られたこと本当におめでとうございます。何れゆっくり英国の大学や研究テーマについてお話を伺いたいです。


3. 笑みさんが関心を持って頂いた、『赤頭巾ちゃん』の主たるテーマである「知性」について、今回少し補足したいと思います。


その前に、前回は、福澤諭吉を読むつもりが、丸山真男の評伝に、さらにそこから庄司薫に道草し、「何を読むか?」本当に難しいという話を書きました。


4. おまけに『赤頭巾ちゃん』を再読し始めると、これまた前に読んでいるのですが、これに続く『白鳥の歌なんか聞こえない』・・・以下、すべて読み返したくなる。


手元に無いので、本屋に行くか、図書館に行くことになる。
こういうとき、大学は便利で、おそらく大学勤務の最大のメリットではないかと思うのですが、昔の私なら2階の研究室を出て1階に図書館がある。これは有難かったです。

5. ところで、知性について庄司薫はこうも書いています
(苅部さんの『丸山真男リベラリストの肖像』2006からの孫引きです)

・ ・・(価値の相対化と情報の洪水の真っ只中で)唯一の有効な方法とは、結局のところ最も素朴な、信頼できる「人間」を選ぶということ、ほんとうに信じられる知性を見つけ、そしてその「英知」と「方法」を学びとるということ、なのではあるまいか・・・・

私も、こういう視点から、福澤や丸山を追いかけていきたいと思います。

さらに、ここで彼が、「知性」を「素朴」や「信頼」「人間」といったキーワードとつなげているところに興味を惹かれます。


6. しかし、いうまでもなく「知性」はいまの大衆社会では流行らない。
そういう意味で、この『赤頭巾ちゃん』(1969年)が「青春文学の新しい原点」としてベストセラーになったのは、実に不思議ですね。
おまけに「東大法学部」という言葉がこれだけ頻繁に出てきて、おまけにそれなりに肯定的に出てくる「青春小説」がよくもベストセラーになったものだと思います。


そのために、つまり「知性」に反感をもつ大衆を想定して、作者はさまざまな仕掛けを試みています。


(1) 主人公・薫君は日比谷高校3年生で、10歳ほど離れた2人の兄は何れも東大法学部を卒業。自らも東大法学部に行こうと決めていた。ところが、大学紛争で東大の入試が中止になり、自分はどう生きるか?を考えなおすことになるという「状況変化の仕掛け」


(2)作者・庄司薫はこのとき、32歳ですでに東大法学部を卒業している。
そして
作中、薫君の兄を通して、以下のようなキザなことを言わせる(これもまた「仕掛け」)

・・・ぼくが特に好きな下の兄貴に、悪名高い法学部は要するに何をやっているのかときいたことがあるけれど、彼はちょっと考えたあとで、「なんでもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えてるんだよ。全員がとは言わないが」とえらく真面目に答えたものだ・・・・


(3)上のように、絵に描いたような「知的エリート」に「ノブレス・オブレッジ」を語らせると同時に、冷静に批判的に・かつ、おちゃらかして眺める自分をおくことで、読者にある種の安心感を与える「仕掛け」。


・ ・・「お行儀のいい優等生で、将来を計算した安全第一主義者で・・非行動的インテリの卵で、保守反動の道徳家で・・・」(あーあ、ぼくはほんとに自分への悪口にかけちゃ誰にも負けないってわけなんだよ)


・ ・・(東大受験競争の総本山みたいな、学校群以前の)日比谷高校ほど、あんなにいやったらしくて、キザで、鼻持ちならぬほどカッコよく気取っていた高等学校はなかったのだよ・・・


もちろん、この「自己批判」はナルシシズムの裏返しであり、薫君の自意識と優越感を読者に示す、そして読者にある種の「憧れ」(「薫君って、優しいなあ、アッタマいいなな、よく本読んでるなあ」)を植え付ける「仕掛け」でもある。


7. そして、読者が感じ取るのは以下のようなことではないか。
(1) 「知性」とは本来、優しいものであり、誰だって、本を読んだり・他者を想像したりすることで身につけられるものであること


(2) 「知性」は、「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」という問いに対する有効な武器となること。


(3) 薫君にはまだ、「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」の答えがはっきりとはわからない。


(4) とすれば、
・ ・・少なくとも僕自身は「ひとに迷惑かけちゃだめよ」で精一杯やっていく他ないのじゃないか、「自分のことは自分で」やって、などと思ってしまうのだ・・・



8. この点について、作者・庄司薫は、「四半世たってのあとがき」で、もう60歳近くになって、以下のように補足しています。


・ ・・・いずれにしても、「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」への解答を留保してできることは、「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説」とでもいったものにもとづいた、他者への必死のものおもい、とでもいったものになるのだろう・・・・



9. 紙数が無くなって、尻切れトンボに終わりますが、最後に一言補足すれば、

何も、「知性」は庄司薫君とその周りにだけ存在するものではない、
そうであってはいけないだろう・・・・ということです。
「知性」は、「素朴」「信頼」「人間」と結びつく・・・と庄司薫が考えていることを前述しましたが、そこに「市民」「普通」も付け加えたいと思います。


あえて、特定の名前はあげませんが、私のよく知っている、京都の市井に生きる「某氏」は、まことにそのような「知性」の持ち主であろうと思います。