インターネット時代と『日本語が亡びるとき』(水村美苗)

1.さわやかNさん有難うございます。
「酩酊しているような随筆風文章展開」は、当方はいつもそうですから大歓迎です。
フェイスブック上のコメント、
「インターネット時代になって、母語に翻訳する暇もなく外来語をそのまま使わざるを得ない。鈴木氏の意見は20年前で古い。いまはカタカナの氾濫もやむを得ないのではないか」
というご指摘もよく分かります。


ただ、やはり自分なりに考えてみたいと思うのは以下の点です。
(1) それにしても、イノベーションマーケティング・・・等がいつまでもカタカナ外来語のままなのはなぜか?
(2) 仮に、明治の初め、先人が、苦労して漢語を造りださなかったなら、日本人はいまでも「社会」ではなく「ソサイエティ」、「権利」でなく「ライト」、「自由」でなく「フリーダム・リバティ」と書いていたかもしれない。それでよかったろうか。
(3) よく「ベースボールと野球とは違うスポーツだ」と言われる。

「違う」という意識は、「野球」という漢語を造ったから生まれたのではないか。
「社会」という言葉が出来たお陰で、私たちは、西欧の「society」と日本の「社会」と、どこが同じでどこが違うか?を考えることが出来るのではないか。



2.そうは言っても、いまがカタカナで表記せざるを得ない言葉が氾濫している時代というのもご指摘の通りですね。


「世界中の人々はインターネットについて語るとき英語を使う」(『日本語が亡びるとき、英語の世紀の中で』水村美苗2009年小林秀雄賞)
(写真2−水村さん)
水村さんの著書は、内田樹さんが「肺腑を抉られるような慨世の書である」
http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php

と評するように、
「英語という普遍語の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。」(同書、P.233)


それでは、日本語(とくに、「書き言葉」としての)はどうなっていくのか?
本書の最後は以下のような、著者の危機感で終わります。

「私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった。私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。そう信じている人が少数でも存在している今ならまだ選び直すことができる。
選び直すことが、日本語という幸運な歴史を辿った言葉に対する義務であるだけでなく、
人類の未来に対する義務だと思えば、なおさら選び直すことができる。
それでも、もし日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。」


3.水村さんは本書で何を訴えたいか?
「日本人はあまりに日本語を粗末にしてきた」という問題意識に沿って、詩を引用して
日本語の素晴らしさは表意文字であることを強く意識する必要を訴えます。


(1) 例えば、「文語体」という文字文化。

「からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。」(北原白秋『落葉松』)


(2) また例えば、萩原朔太郎のよく知られた『旅上』について、面白い(と私が思う)ことを言います。

ふらんすへ行きたしと思へども / ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて / 気ままなる旅にいでてみん・・・


この最初の2行を
フランスへ行きたしと思へども / フランスはあまりに遠し
となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。

蛇足だが、この詩を口語体にして、


フランスへ行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。

このように、表記法を使分けるのが意味の生産にかかわる<書き言葉>は・・・日本語以外に存在しない。

そんなおもしろい表記法をもった日本語が「亡びる」のは、あの栄光あるフランス語が「亡びる」よりも人類にとってよほど大きな損失である。」(P.308)


4.今回は、最後に、

どんなにインターネットが進み、どんなに「英語の世紀」になって、水村さんが嘆くように日本語が(美しい書き言葉としては)変わってしまっても、永久に変わらないのがたった1つ「生者必滅」です。

5月19日、18年生きた我が家の老猫が死にました。
この半年ほどすっかり弱り、この数週間は歩くのにも難儀をしていましたが、それでも最後まで身の回りを自分できれいにしようと努め、殆ど迷惑を掛けずに、ごく短時間苦しんだだけで息を引き取りました。それでも生き物が「生きること」を放棄するのがどんなにたいへんなことか・・・・そして生き残った生き物はどんな想いで先に逝った「生」を見つめ・思い出すのか・・・誰もが通る途です。

http://d.hatena.ne.jp/ksen/20060908
彼女はたびたびブログにも登場しました。
家人はすっかり落ち込んでいます。
それでも、先に死んでいった先輩にどれだけ教えられ・楽しい生を送ることが出来たか、感謝するしかないでしょう。
彼女はこんなメールを子供たちに送りました。

「若いときに接する動物の死とこの年齢になって可愛がっていた動物に死なれるのとがこんなに違い 気持ちが参るとは思っていませんでした 多分自分の死が以前よりずっと身近になったからでしょう。

”シマ、先に行っちゃったね。苦しかったね。でももう安楽になったね。我儘ネコだったけど利口な面白い子だったワ。何も言わなかったけど最後まで頑張ること、自分の始末はすることなど大事なことを教えてくれました。ありがとう!”という気持ちです。」



5.(注)なぜか新しい写真を貼り付けることができなくなりましたので
今回は我が家の猫君の生前の写真ばかりです。