勝海舟『瘠我慢の説』と様々な出処進退

山の見える田舎に居りますが、あたりはすっかり夏景色です。

1. フェイスブックの杉浦さん、さわやかNさん、十字峡さん、我善坊さん、コメント有難うございます。それぞれに考えることがありました。
ということで今回はコメントの返事で終わりそうです。


2.杉浦さん、『丁丑(ていちゅう)公論』ですが、私も正直言ってゼミで初めて知って、読んだものです。

序でに言えば福沢諭吉には、これとセットで取り上げられる『瘠我慢の説』があります。幕臣だった勝海舟榎本武揚明治新政府に取り立てられて立身出世している生き方を痛烈に批判した書です。


3. さわやかNさんのコメントですが、
もしご指摘の通りとすれば、福沢の主張は140年後の今も有効だということですね。
それが古典を読む意味なのでしょう。


我善坊さんの「近代化」についてのご意見はまことに的確で勉強になりました。
ご指摘の通り、「歴史上の人物の評価」は「その時代に身を置いて判断すべき」ですね。


「人物の評価」は時代とともにある。
他方で、彼らの思想は、時代を超えて「普遍的なメッセージ」になりうる。
それが古典を読む意味ではないか、と思います。


4. 十字峡さんも有り難うございます。

『翔ぶがごとく』は殆ど覚えていないので時間があれば再読したいです。
ご指摘の人物は、ちょっと記憶にありませんが、薩軍に加わった熊本県人の宮崎八郎かもしれませんね。

司馬遼によると「人民を座標に置いた最初の革命家」で西郷を敬慕したようです。
孫文を支援して辛亥革命を支えた宮崎滔天は弟です。
『翔ぶがごとく』によると、政府軍に銃撃されて死亡した際、下帯に、かれ自身が筆写したジャン・ジャック・ルソーの『民約論』(中江兆民の訳)が挟まれてあったと。

西郷を慕って命を賭けて参加した薩摩人では、村田新八、永山弥一郎などが居ます。
司馬遼も、この2人は特に愛着をもって書いています。


彼らは西郷の征韓論や行動や彼をかついだ連中には賛同していなかった。
村田であれば、岩倉使節団に加わり、欧米を見てきてもいる。
もう西郷の言うような時代ではないし、勝ち目がないとも分かっていた。

しかし、「せご{西郷}ドンを見捨てるわけには行かない」と言って明治政府を辞し、しかも同行しようとする友人を全て帰し、「自分一人でいい」と覚悟の上で参加したといいます。

それにしても「西郷派」「大久保派」としましたが、西郷は戦死、大久保は暗殺、そういう時代だったのでしょう。


5. いろんな人が居て、いろんな生き方・死に方があります。
前述した『瘠我慢の説』ですが、
(1) 「立国は私(わたくし)なり、公(おおやけ)にあらざるなり」という出たしの言葉が(その解釈をめぐっても種々意見があり)よく知られています。

(2) ここでも福沢は「抵抗」という言葉を使い、講和論者の勝には「抵抗=瘠我慢の精神」がなかったと批判します。

いまは西洋文明を取るべきであるとして、そのためには一身独立だと説く福沢が、
他方で、勝を批判する理由として「敵に向って抵抗を試み」なかったのは「数百千年養い得たる我が日本武士の気風を損なった」からだといいます。
さらには、勝が維新後「新政府の貴顕となり、愉快に世を渡りて、かって怪しむ者なきこそ、古来、未曾有の奇相なれ」と、幕府の重職から政府の高官への転身を激しく攻撃します。

(3) 福沢は、この文章も明治24年に執筆したが公表されたのは死去の直前、明治34年になってからです。

執筆直後に彼は勝と榎本の2人に文章を見せて、反論があったら聞きたいと申し出ます。
これに対する勝の返信もよく知られていて
「行蔵(こうぞう=出処進退)は我に存す。毀誉(きよ)は他人の主張。我にあずからず我に関せずと存じ候」。だからどうぞ自由に公表して結構だと書き送ります。


6. 勝海舟の生き方とそれを痛烈に批判する福沢をどう考えるか?
どちらを評価するか?
本書をめぐっては、私が参加しているゼミで、15人のゼミ生の意見交換はまことに賑やかでした。

私は、「太平洋戦争時の人たちの様々な出処進退を思い出す」として、戦争に責任のあった3人の異なった生き方・死に方をあげました。


1人は、阿南陸軍大臣
ポッダム宣言受諾を決めた御前会議で最後まで反対し、
徹底抗戦を主張。
「一死、大罪を謝す」の遺書を残して、8月15日朝、腹を切った。

もう1人は、井上成美(最後の)海軍大将。
米内光政・山本五十六とともに、日独伊三国同盟に反対し、戦時下の江田島兵学校の校長を務め、英語教育廃止の方針に抗して英語の授業を続けさせた。
戦後は一切、表舞台に出ず、三浦半島の田舎で、子ども達に英語を教えて過ごした。


そしてもう1人は、東條内閣の商工大臣。起訴はされなかったが、A級戦犯容疑者。戦後復権して、総理大臣になった某。

勝が言うように「行蔵は我に存す」でしょうが、激動の時代には様々な生き方と死に方がありました。


いまは平和な時代。
激動も激変もなく、出処進退も訳が分からず(年金の運用で大損を与えて「損させるつもりはなかった」と開き直り、問題会社を退職しても子会社・関連会社で生き返り、野党と合意したり・新党を作ったり――えっ、あの人が原発反対?)、

英雄も我々庶民も、災害・災難・いじめを除いては、全て平和な生と病院での死。
他にあまり選択肢はなさそうです。