「社会」と「人間(じんかん)交際」について

1. 例によって遅くなりましたが、「職人魂」についての柳居子さんと我善坊さん、ミヒャエル・エンデの「モモ」に登場する床屋のフージー氏に触れたFBの中島さん、何れも有り難うございます。


僭越ながら、何れも卓見と思い、たいへん興味深く読みました。

ご指摘のように、「職人魂」は近代以前の話だけでなく、いまもどこかに残っている。大工さんの仕事ぶりにそれを感じたことが私の拙いブログの始まりです。

しかし、これまたご指摘のように「育てる余裕がなくなった」「効率優先の中で、経験と勘は、技術に代わられて退場するしかなかった」・・・・ということでしょうね。


2.「効率社会」「組織社会」「顔の見えにくい社会」になったことが、その背景にあるとすれば、もういちど「社会」とは何か?を考えてみたい・・・・

というような感想と関係するかどうか分かりませんが、9月14日(金)夕、京都での小さなセミナーの報告です。

ソーシャルメディアとソーシャルビジネスの親和性を探る」
というテーマで?カスタネット社長植木さんが代表の、一般社団法人京都ソーシャルビジネス・ネットワーク主催。
定員30人がちょうど埋まりました。


ソーシャルビジネスとは、収益事業の柱に、貧困や格差の改善・高齢者や障害者支援などの社会問題解決を据えるという取り組み。

他方で、ソーシャルメディアは、「インターネットにおいて、個人を主体にした情報発信や情報交換を可能にするメディアの総称」で、周知の通り、
ストック型のブログ、フロー型のツイッターフェイスブック・・・が主なものです。

つまり、インターネット社会において個人の双方向のコミュニケーションが活性化した、これがソーシャルビジネス普及の追い風になるだろうか?
どうすれば両者をウィン・ウィンに持っていけるか?という問題意識です。


3.セミナーの主役は、ソーシャルメディアのプロ、加藤和子さんで、
彼女の話は私にとってもたいへん勉強になったのですが、
今回は、以下の通り、その前に前置きとして
「ソーシャル」という言葉の意味について喋った要旨の記録です。


(1) まず、言うまでもなく、「ソーシャル」は「society」と言う英語から来ています。

この「society」に「社会」という翻訳語を当てたのは明治10年代。
当時の人は、適当な日本語を探すのにたいへん苦労しました。
その理由は、
1つは、societyに相当する日本語がなかったから、
もう1つは、そもそも、societyに対応するような現実が日本にはなかったから。

(2) Societyには少なくとも2つの意味があります。即ち、
「同じ趣味や目的を持った仲間、集まり、社交」といった狭いつながりで使う場合と、
アカの他人同士が「個」として横につながるという広い人間関係(英々辞典――他の個人(=individual)とつながりを持って生活する状態、組織化されたコミュニティ)を意味する場合とがあります。

この後者を表す訳語にふさわしい日本語は何か?そういう現実がなかっただけに、明治の先人はたいへん悩んだわけです。

例えば福沢諭吉は「人間(じんかん)交際」という訳語を使いました。
後者の意味を含む訳語がいろいろ考えだされて、最後は「社会」が定着したわけですが、言葉はともかく、
実体としての広義のsocietyそのものはその後、定着しただろうか?という疑問はいまも残されているのではないでしょうか?

だからこそ、いまソーシャルビジネスとソーシャルメディアが大事ではないのか?
という問題意識です。

それは「社会」を、福沢の使った「人間(じんかん)交際」という訳語に即して考え直すということでもあります。


3.次に「ソーシャル」と言う言葉も当然に多義的です。

(1) 英和辞典を引くと、「社交的」という意味と、「社会の」「社会に関する」という意味と少なくとも2つ出てきますが、これがsocietyの持つ2つの意味と対応しています。


(2)ソーシャルビジネスの「ソーシャル」はもちろん後者ですが、

ソーシャルネットワークソーシャルメディア
と言った場合の「ソーシャル」は、もともとは前者「社交関係」の意味で、社会全体とかコミュニティといったイメージではない。


周知の通り、フェイスブックは、ハーバード大学の学生相互のネットワークという、排他的・社交的かつスノッブなサイトとしてスタートしたものです。


それが、途中から一般のユーザーを獲得する拡大路線へと変更されて、「オープン」かつ「トランスペアレンシー(透明性)」を方針として打ち出してきた。


(3)いわば、「ヨコにつながる・仲間うちのネットワークである“社交”」の「ソーシャル」が、インターネットの特性を通して、「オープンで、どこまでも横に拡がっていくネットワークである“社会”」という「ソーシャル」へと転換した。

しかも本来の意味である「社交」を忘れてはいけない。
「社交」と「社会」はつながるということを忘れてはいけない。


だからこそ、ソーシャルビジネスとソーシャルメディアとの親和性が生まれてくる。
そしてその親和性は、「組織社会」「効率社会」「タテ社会」が今後も無くなることはもちろんないにせよ、
それらの「社会」とバランスをとって、「もうひとつの社会=人間交際=横のネットワーク」を育てていく力を持っているのではないか。


前回のブログで紹介した山崎正和の『社交する人間』を念頭に置きながら、そんな風に考えているところです。