福沢諭吉祖先発祥の郷由来碑

1.
蓼科高原はすっかり秋めき、紅葉も始まりました。
つい数週間前まで黄金色だった田も刈り入れが終わりました。
秋晴れの比較的好天が続いており、青空に八ヶ岳がよく似合います。

東京で学生となっている世田谷市民大学のゼミ「福沢諭吉を読む」は最終2年度
の秋学期に入りました。茅野市から中央高速バスに乗って日帰りするので、なかなか毎回出席は出来ませんが、9月から相変わらず、福沢の著述「新女大学」「兵論」「実業論」などを読み続けています。


2. 今回は彼の先祖の話です。
彼は、明治6(1873)年、先祖記念のため、郷里の豊前中津(現大分県中津市)に碑を立てました。
それには「福沢氏の先祖は信州福沢の人なり。元禄宝永の際、その子孫兵助なる者、豊前中津(略)に住し、(略)これ以前の事は詳らか」ではない・・・云々の碑文を自ら起草します。


この信州福沢が、信州のどこなのかははっきりせず、福沢という地名は現在の長野県に10数カ所あるそうです。

その中で、最近の研究で、どうやら茅野市豊平区福沢であった可能性が高い、ということになって、昨年9月にこの地に「福沢諭吉祖先発祥の郷由来碑」が建てられました。

このことを教えてくれたのが市民大学のゼミの先生で、彼の同僚で慶応義塾商学部の名誉教授がそういうことを言いだして、それを知った茅野市が碑を建てることを具体化したそうです。


3. 実は私がいま疎開している茅野市の田舎の家が、同じく豊平にあります。
「せっかく勉強しているのだから、これも何かのご縁だろう」と思い、数日前に見てきました。我が家から、車でせいぜい15分ほどのところです。
場所を確認したいと思い、市役所か市の図書館がいいだろうと、馴染みのある図書館の方に行き、受付の女性に訊いたところ、彼女は碑の存在を知らず、それでも丁寧にあちこち調べて「このあたりだろう」という情報をもらって出掛けました。

写真の通り、上(かみ)川という川のほとりにある小さな一画で、道標・看板はけっこう大きく立っていますが、碑は地味なものです。

もっとも、福沢諭吉本人は、上述のように先祖供養のための「碑文」を自ら建てましたが、出自だの先祖だのルーツだのには全く関心のない人物だったので、信州のどこでもいいよ、と苦笑しているかもしれません。
「自伝文学の傑作」と評される『福翁自伝』は、死去の1年半前、66歳の時に刊行したものですが、先祖について触れることは無く、両親についての記述から始まります。
 
彼の若いころはというと・・・・
大阪の中津藩屋敷で生まれたが、生後18ヶ月で父親百助が病死し、
豊前中津に戻りました。
その後、長崎で学び、大阪の適塾で学び、江戸に出ました。
23歳、大阪で学んでいるときに兄が病死、家督を継いだが、自らの意志と決断で大阪に戻り江戸に行き、中津に定住することはなかった。
このような行動が出来たのには母親の理解も大きかった。
彼はそういうことを感傷的に語る人間ではありませんが、「家督を継いだ人間が主君奥平家のために奉公せずに中津を去って、おまけに異国の言葉和蘭語を学ぶとはけしからん」という親戚の批判にも拘らず、母親に話して理解と支援をもらって中津を去ったことについて、「自伝」にさりげなく触れています。



平福沢区の「碑」の方もその辺は心得ていて以下のようにあります。

・・・諭吉が建てた碑文などには、「福沢家の先祖は、必ず寒族の一小民なるべし」など、先祖の地名を姓とし、家柄や身分にこだわらない諭吉の(略)平等思想への信念がうかがわれる・・・・

しかしながら最後は以下のように結びます。

「諭吉の偉大な思想の土台が、ここ茅野市福澤にあった可能性は
極めて高く、この地の誇りであり、永く末代へ伝承していかねばならない」


写真とともにゼミの先生には訪問の報告をしましたが、まだ知名度はさほど高くないようで、町おこしの誘因にはなっていないようですね、という返事をもらいました。
慶応義塾の先生としては、ちょっと残念という気持ちもあるのでしょうか。


私としても、長年主として夏を過ごしている土地が、ゼミを通して学んでいる福沢諭吉と縁のありそうだというのは面白い偶然と思い、何かの機会に地元の人にも伝えていきたいと希望しています。