気仙沼市大島の思い出

1. 遅くなりましたが、氤岳居士さん、4月1日付のコメント有難うございます。
「自分が選択した生き様が崩壊しかねない事象に身をさらすだけの気概が保てなくなる」というお気持ちは、僭越ながらとても誠実だと思います。
私もおそらく、ほぼ同じ年頃で、同じ気持ちで過ごしております。


ただ、現場に行って、辛い現実を見聞すると同時に、それでも「人は生きている」という当たり前の光景に力づけられたことも事実です。


そんな次第で、旅の記録の最後に、気仙沼大島の思い出に触れたいと思います。
大島は気仙沼市の港からフェリーに乗って30分ほど。
本土との最短距離は200メートルほどですが、まだ架橋されておらず往復800円で、夜7時過ぎが最終便のフェリーが唯一の公共交通機関です。島に高校はなく中学を卒業するとフェリーで通わざるを得ません。

2.東日本大震災の日、20メートル近い高さの津波に2回襲われ、島の中央部は分断され ました。
しかも翌12日には津波で流失してきた重油タンクからがれきが引火し、山火事にも襲われ、火の手は海抜230メートル強の亀山山頂まで達し、リフトは焼け焦げてしまった。

ぶつかる激流に四方を囲まれ、火に焼き尽くされて、「地獄のようだった」と河北新報は当時の島民の証言を載せています。
必死の防火作業もあって「幸いにも、火は防火帯まで達することなく、3月17日午前11時3分に鎮火。火災による家屋の焼損、人的被害はなかった」

津波で船舶が流され孤立してしまい本土からの応援もままならなかった。
島民は自ら「災害対策本部」を立ち上げて対応。かたがた、「アメリカ海軍航空隊による空輸と揚陸艦エセックスから揚陸艇で上陸したアメリ海兵隊第31海兵隊遠征隊により支援活動が行われた」。いわゆる「トモダチ作戦」です。


2. 前回も書いたように、今回案内してもらった京都のFさんKさんは、がれき撤去のボランティアのリーダーの1人として足を運んだそうです。

従って、島の人たちにも顔馴染みが出来て、今回泊まった「明海荘」のご夫婦も
親切に応対してくれました。
京都の仲間・カスタネット植木さんが寄付し、Fさんががれき撤去作業時にバスに載せて運んだたくさんの台車の1つもまだ置いてありました。
避難所やいまもある仮設住宅へ支援物資を送るのに、いまも活躍しているそうです。

3. 夕食を終えて、ご夫婦から遅くまで話を聞きました。
もちろん「島」という閉鎖社会を襲った悲劇は各人の受けた被害に差もあるでしょうし、状況も辛さも違うでしょうから、一丸となるのはなかなか難しい現実があるでしょう。そういう点はお互いに触れませんでしたが、
震災当時の話(私たちの世代であれば幼時に体験した空襲や戦災の悲劇を思い起こさせるような・・・)
いま復興に向けて活動している内容のいろいろと同時に、
日本のあちこちとつながっているという話が印象に残りました。

(1) 京都の宇治や亀山から元気な女性たちがきて女性が集まって手作業と交流の居場所を作っている活動は前回も触れましたが、その他
(2) 「トモダチ作戦」でご縁が出来たアメリカ軍の海兵隊が毎年夏にオキナワに島の中学生を招待してくれる
(3) 東京の小学校(たとえば、サンマ漁が盛んなことから目黒の小学校とつながっていて、震災後も毎年訪れる)。或いは、愛知県の某私立の高校生がやはり、復旧支援を兼ねて何度も来てくれる
(4) 大学生が学校支援のために訪れて、復旧・復興支援とともに勉強の手伝いをする。
これは立教大学大阪大学などの学生たちで、私たちが泊まった翌日も30名の大学生が泊まるとのことでした。
小学校・中学校は、震災直後、勉強どころではなかったでしょう。本土との交通も途絶え、高校にも通えなかったしょう。そういった遅れを取り戻すという目的もあるでしょうが、やはりここでも子供たちと若者との交流が大事だと聞きました。
子供たちは次第に心を開いて、親や先生には決して漏らさないような、震災当時の悲しみや恐怖から受けた思いを、自分たちと近い「お兄さん・お姉さんたち」には語るようになるそうです。

4. 私のような、何の役にも立たない高齢の庶民が、こんな報告をすること自体、何の意味があるのかよく分かりません。
ただ、今回、ほんの短期間、宮城と福島のほんの一部で、東北の人たちに会うことが出来たのは、本当によかったな、と考えています。

自然と人間の営みについて、あらためて考えるきっかけになったのもその1つです。
特に、福島市でお会いした人たちの思い。これを具体的に伝えることは出来ません。
しかし、やはりあらためて痛感するのは、この原発事故という悲劇です。
今回、「人間」は本当に深い・深い罪を犯してしまったな、私たちはあまりに不遜・傲まんだったのではないか、という強い気持ちを抑えられません。一部の声かもしれませんが、「あまり話題にしてほしくない。脱原発を声高に叫ぶデモの様子を見ると(もちろん彼らの行動に異を唱えるつもりは毛頭ないが)かえって辛くなる」という発言は、被爆者の1人としては痛いように分かります。

5. 他方で、「自然」については、いま読んでいるノルベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』で彼はこんなことを書いています。
・・・自然は、良いことも悪いことも、盲目的に人間に配分しながらつき進んでゆく。この自然の無意味な進路をある程度まで支配することができ、互いに助け合うことができる唯一の生物は、人間自身なのである。

また、
・・・ある人間の人生は、どのような形にせよ他者に対して意味を持つ。したがってある人間の人生の中から、他者との連関をまったく欠いた、それだけで意味を見つけようとする試みは、徒労に終わるほかない・・・・


6. 東京の桜はほぼ散ってしまいました。隣家の梨の花もほぼ終わりですが、まだ少し花をつけています。
福島花見山や気仙沼大島の桜はこれからでしょう。

自然は、「盲目的に」、時に美しく、時に残酷に、私たちの眼前に現れるのです。