『日の名残り』に登場するレディ・アスター


1. さわやかNさん有難うございます。
「日本」の一般解ではなく個人の個別解を解くことが必要だという気持ちはよく分かるように思います。
ただ、他方で「国家」という存在も無視できないですよね。
この点は昨今やかまし憲法論議にもからんで何れ、ブログで触れればと思っています。


2. 今回はまだ『日の名残り』と「歴史の常識とは何かは難しい」が私の中でつながっていて、その流れでレディイ・アスターという女性をゴシップ風・ミーハー的に取り上げたいと思います。


日の名残り』の中では、語り手・執事のスティーブンスが仕えるダーリントン卿のお屋敷にいろいろと著名人がお客として現れます。
実在の人物として、リッベントロップやチャーチルハリファックス外相等が登場することはたびたび触れました。
このほか、作家のH・G・ウェルズやバーナード・ショウの名前も出てきますが、この時代(1920〜30年代)、イギリスでもっとも有名な女性の1人ではないかと思う、レディ・アスターも出てきます。
訳書の191頁には


――たとえば、アスター夫人が、(略)私どもの銀器には「おそらく並ぶものがないわね」と言われたことがありました ――
とあります。

3. 冒頭の写真は才色兼備で知られた彼女の若いころの肖像画です。
画家はアメリカの有名な肖像画家ジョン・シンガー・サージェント。
彼の絵は、NYメトロポリタン美術館アメリカン・ウィングの目玉展示の1つです。

ナンシー・アスター自身もアメリカ人で英国に渡り、アスター子爵と結婚し、爵位を継いで貴族院議員になった夫の選挙区をひきついで立候補し、女性で初の国会議員(下院)となりました。
夫のアスターの名前はウォルドルフ。
アメリカの著名なアスター一族の一人です。アスター家はもとはドイツ出身ですが、先祖がNYに移民し不動産で大富豪となりました。
NYのパーク・アベニューに「ウォルドルフ・アストリア」という高級ホテルがあり、今はたしかヒルトンの系列ですが、アスター家が建てたものです。


そういえば昔私が勤務した旧東京銀行アメリカに展開した現地銀行「東京銀行信託」(全米に数千ある銀行のなかで40番目ぐらいの大きさの銀行でした)の支店がこのホテルの中にありました。個人的には懐かしい思い出です。


4. このアスター夫妻、イシグロがダーリントン卿なる人物を創造したとき、念頭にあったかもしれない・・
というのは、夫婦のお屋敷、テ―ムズ河を見はらす大邸宅「クリブデン」(いまはホテルになっている)で1930年代、ナチス・ドイツに同情的な貴族連中が集まったという話があります。夫妻が皇太子時代のエドワード8世と親しかったのもこういう噂が拡がる背景にあったかもしれません。
他方で、その集まりは、政治的な意図はなくただの社交だったという説もあって、彼女は本当はヒトラーに批判的だったという言う人もいて、いまだに「常識」になっていないようです。
因みに写真はゴルフ場での皇太子とレディ・アスターです。

彼女について常識になっているのは、その才気煥発ぶりで、とくにウィンストン・チャーチルとのウィットの応酬が(これもどこまで事実か伝聞かは分かりませんが)よく知られています。


私もいろんな場で何度も紹介していますが、昼間からウィスキーを飲んでは毒舌を吐くチャーチルの、いつもの憎まれ口に業をにやした彼女が
「私があなたと結婚していたら、朝のコーヒーに毒を入れてしまいますよ」
チャーチルすかさず答えて
「私があなたと結婚していたら、そのコーヒー、すぐに飲み干してしまいますよ」
もちろん彼女の方も負けていません。
保守党議員の間で近く開かれる仮面舞踏会の話題になって、チャーチルが「今回はどんな仮面にしようか悩んでいる」と言ったところ、彼女すかさず、
「あなたは“しらふ”でお見えになるのがいちばんの“仮面”になりますわ」
チャーチルももちろん逆襲する。
「仕事中だというのに、もう酔っておられますね。しょうもない酔っ払いだこと!」
「その通り、私は酔っ払いです。そして、あなたはと言えば、醜いですな。しかし、私の方は、明日の朝になれば“しらふ”に戻りますよ」
まあこれは、「醜い」とは誰も思わない彼女だからこそチャーチルも安心して応酬したのでしょう。
それにしても英国人というのは、こんな風にちょっといやらしい・皮肉大好きなところがありますね。

5. 長くなるのでこの辺で切り上げて、最後に呼称にも触れておきましょう。

上述したように邦訳は「アスター夫人」とありますが、原文はもちろん「lady Astor」で「レディ・アスター」にしてほしかったなという気がします。
もちろんこの邦訳は全文これ名訳との評判で私も全く異存なく、社会制度が違うので仕方ないとも言えますが、「アスター夫人」では「シンプソン夫人(Mrs .Simpson)」と同じになってしまいます。ミセス・シンプソンは退位したエドワード8世と結婚して「ウィンザー公爵夫人」となりますが、それまではアメリカ人の平民でした。


「レディ」は貴族および準貴族の夫人への呼称。因みに、レディの旦那は「サー」ですが、本人に呼び掛ける時は、旦那の方は「サー・名前(或いはフルネーム)、夫人の方は「レディ・姓」で呼ぶそうです。
昔ロンドン勤務のとき、ヒュー・コータッチさんというもと駐日大使が一代準貴族の「ナイト」で、当時たしか日英協会の会長をしておられてたまにお会いする機会がありました。
「ご主人は「サー・ヒュー」奥様は「レディ・コータッチ」とお呼びするのを間違えないように」と英国人の秘書に何度もアドバイスされたものです。


「世界で最も成熟した議会民主主義の国」イギリスが、他方で、こんな古臭い「貴族制素」を今も頑固に守り、両者が共存している・・・呼び方まで庶民と異なる・・・
不思議な国だなあ、とつくづく感じたものでした。