立憲主義と『憲法と平和を問いなおす』(長谷部恭男ちくま新書)


1. さわやかNさん、コメント有難うございます。
前回は、中国が建国100年を迎える2049年にはアメリカと対等あるいは越える世界一の軍事国家を目指す「チャイナ・ドリーム」を主張する人たちが居るという記事を紹介しました。軍拡競争に力を入れる両国の姿勢(もちろん「世界の警察官」を自負するアメリカの思考と行動にも問題があります)は「不安」ですが、同時にコメントご指摘の通りにて、「近代国家とは?」をいやでも考えざるを得ないですね。

そんな訳で今回はまた硬くなりますが、「立憲主義」(Constitutionalism)についてです。


2. さわやかNさんは、以前のブログに「日本の一般解ではなく個人の個別解を解く必要」を書いておられました。この気持よく分かるように思います。

ただ、難しいのは、硬い言い草になりますが、
リベラリズムは実は主権理論を必要とする。つまり、国家の論理があることで、始めて、自由や権利の論理が存在しうる」
言い換えれば「国家による自由によって支えられた国家からの自由」というパラドックスです。


以下は受け売りの孫引きですが、スティーブン・ホームズというアメリカの政治哲学者が1995年に書いた文章だそうです。

「主権が存在しない状況においては、権利は観念することは出来ても、経験されることはない。現在のソマリアがそうであるように{今ならシリアか?じゃ北朝鮮は?}弱い国家しか持たない、あるいはそもそも国家が存在するとは言えない社会では、権利は存在しないか、または執行されないままになっているのである」


我々は強力な国家権力の下でなければ、自由や権利を享受することが出来ない。
一言で言えば、これが「近代国家」を成り立たせるモメントであると言えましょう。
(その意味からは、北朝鮮は「国家」ではあっても「近代国家」とは言えないでしょう)
そしてだからこそ、
「制約された権力の方が無制約の権力よりも強力である」
という命題。これが、「立憲主義」の依って立つ「原理」だと思います。


3. 昨今、憲法改正論議にからんで「立憲主義」という言葉が、新聞や雑誌に登場するようになり、法学部OBとしては嬉しいことです。

憲法改正論議、とくに96条や9条の話になるとどうしても感情論になってしまい、冷静な議論が出来なくなります。


そこで、まずは「立憲主義」を理解しておきたいと思います。
論拠とするのは、長谷部恭男東大教授の『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書2004年)です。
(もちろんこれも1つの「主義」である以上、異論のある向きもあるでしょう。
言うまでもなく、中国では「司法の独立」は禁句です。)


ここで「立憲主義」の要請とは
(1)「権力の分立および抑制・均衡、個人の人権の尊重を通じた国家権力の制限である」
と定義されます。


{2}そしてそれは、人民主権とそれにもとづく代表民主制と時に対立することがある。
「民主主義にもとづいて行使される国家権力でさえ制限されるという点に、立憲主義の強みとその謎がある」


{3}立憲主義に依って制定されたのが(日本を含めて)「近代国家」の憲法典とすれば「われわれは、憲法典による権力の制限が民主主義と衝突しうることを直視したうえで、なぜそれが正当化されるかをあらためて問うべきである」
というのが長谷部さんの問題意識です。


4. このような原理にもとづく「国家」と「憲法」とは、(少し長い引用ですが)
「市民に生きる意味を与えない」
「それは「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない」
立憲主義が前提とする国家は、市民の生に包括的な意味と目的を付与する国家ではない。
それは、多様で相互に両立不能な世界観や生の目的を抱きながらも共同生活の便宜を公平に分かち合おうとする人々が集い、全市民に共通する公益について理性的に討議し決定するという、意義の限定された空間にとどまる」

そして、そこにこそ、民主主義を補強する装置としての立憲主義にもとづく憲法典の意義があります。再び、ホームズの孫引きによれば

憲法は権力を制約して専制を防ぐだけではなく、同時に権力を構築し、権力が社会的に望ましい目標に向かうように教導し、社会の無秩序と私人による抑圧を防ぐものである・・・・

5. ここで、6月6日の東京新聞記事を思い出しました。
この記事によると、参院憲法審査会が参考人質疑を実施した。
参考人の1人であり、改憲派として知られる小林節慶応大教授は、96条先行論には反対意見を述べるとともに、以下のやりとりがあったそうです。

自民党山谷えり子参院議員は「憲法は国柄や歴史、文化を国民と共有するものだ」と持論を展開したところ、
小林教授は「そんなことを最高法規から説教されたくない。法は道徳に踏み込まず、という格言が世界の常識だ」と主張した。


小林教授もまさに「立憲主義」の認識に立っているわけで、そこには護憲か改憲かの区別が無いことが明らかです。
個別論に入るとどうしても感情論になるので、避けたいとは思いますが、
自民党草案の例えば
「第3条第2項 日本国民は国旗及び国歌を尊重しなければならない」という規定は
おそらく、こういう理念とはほど遠いと言わざるを得ないでしょう。

言うまでもなく、「尊重するな」と言っているのではなく、憲法の「出る幕」ではないということではないでしょうか。


最後に、この点で、もっと手厳しい長谷部さんの言葉を引用しておきます。

「危ぶまれるのは、国旗や国歌といったシンボルを通して、「国を愛する心」が目に見える態度として現れているか否かが見分ける方法として用いられるという事態である。
君が代」をココロを込めて歌ったり、「日の丸」の掲揚を見て、ジーンときたりするココロが育つことで、「国を愛する心」が身についたのだとすると、単に訓練された犬と同様の反射的態度が身についたというだけのことである。・・・・・」(同書70頁)