立憲主義の視点から憲法九条を考える


1. 7日ぶりの更新でたいへん遅くなりましたが、コメント有難うございました。
arz2beeさんの「一言で断ずる俺あるいは私が正しいという姿勢は反射神経に過ぎない」
とは痛快なコメントですね。


たしかに、自戒も込めてですが、ITの進歩もあってか昨今、安易な自己主張が多いような気がします。
最近、京都で若い人と話していて「なるほど」と思ったのは
「日本人はアメリカ人に比べて自分の意見を言わない」と
学校で批判されて、何でもいいから意見を言わないと、という気持ちになる、という発言です。
もちろん先生も「まずはちゃんと勉強してからの自己主張だよ」と言ってはいるのでしょうが。

我善坊さん、書家石川氏の意見は知りませんでしたが、興味深く読みました。
何れにせよ、多くの人がもう一度まじめに憲法を読もうか、という気持ちになってくれればいいなと思います。


2.ということで、今回も硬く・かつ初歩的な話になりますが、主として長谷部東大教授の『憲法と平和を問いなおす』に沿って憲法九条「戦争の放棄」を考えてみたいと思います。
長くは書けないので舌足らずになりますが、論点は以下の3つです。
(1) そもそも戦争に「正義」はあるのか?
(2) 法律とくに憲法の解釈とは?
(3) 憲法九条をどう解釈するか?

まずは、「戦争」については以下の4つの考え方がありえます。

(A) 積極的正戦論――正義と世界秩序を実現するため「正しい戦争」はあると積極的に肯定する考え→古くは十字軍、最近ではイスラムのジハードやイラク戦争時のブッシュの論理など。


(B) 無差別戦争観――戦争は不可避だが良い戦争・悪い戦争の区別は出来ない。従っていったん「良しあし」はかっこに入れて、「ルール」が大事である→幾つかの条約にある考え。例えば「化学兵器禁止条約」等の背景にある考え。


(C) 絶対的平和主義――全ての戦争は「悪」である→「非暴力抵抗」や「市民的不服従」の考えにつながる


(D) 消極的正戦論――戦争をせざるを得ない場合がありうる。→「専守防衛」や「人道的介入」の考え方。

以上のうち、憲法九条「戦争の放棄」が(D)の「専守防衛」に立つことは、まず通説と言ってよいでしょう。
九条を(C)の立場で理解する人もいるでしょうが、
「ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立する平和主義ではない」(長谷部恭男、以下同じ)


3.次に「法の解釈」については
(1)まず、法規範には「ある問題に対する答えを一義的に定める準則(ルール)と、答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理(プリンシプル)とがある」
例えば、刑法一九九条(殺人)は「人を殺した者は死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあり、これは言うまでもなく「人を殺してはならない」という原理原則を述べているのではなく(それは法の立ち入らない道徳の世界である)「殺した場合の」罰則=「準則ルール」を決めたものである。

それに対して例えば憲法二一条一項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
など「憲法上の権利の保障を定める規定のほとんどは、原理を定めているにとどまる。表現の自由が保障されているからといって、人の名誉やプライバシーを侵害する表現活動にいたるまで、文字どおり「いっさいの」表現の自由が保障されるわけではない」


(2)したがって重要なのは、法律の解釈には「文理解釈」と「有権解釈」の2つがあるということ。
文理解釈とは上記の刑法一九九条を条文に沿ってその意味することを理解すること。
他方で、有権解釈とは、上記憲法二一条の場合であればある個別の事例が、同条が保障する「いっさいの」表現の自由に該当するかどうかを「専門の法律家の手に委ねる」ということです。

専門家の存在、司法の役割、とくに最高裁違憲立法審査権がいかに重要かということは、ここにあるわけです。

4.上に述べた考えに沿って、それなら「憲法九条は、準則と原理といずれだと考えるべきだろうか?」と長谷部さんは問いかけます。

別の意見もあることを認めた上で、彼は上の「戦争論」で述べたように、九条は「専守防衛」の立場に立つ(国家の権力を認め、かつその抑制と均衡を意図する立憲主義の考えからすれば当然ですが)として、「これは原理である」という論陣を張ります。

すなわち、
憲法第九条が準則ではなく、原理を示しているにすぎないのであれば、自衛のための最低限の実力を保持するためにこの条文を改正することが必要だとはいえなくなる。
他人の名誉やプライバシーを侵害する文書を規制するために、憲法二一条を改正する必要がないことと同様である」

さらに長谷部さんは「憲法九条の文言自体からは、集団的自衛権が否定されているという解釈は、一義的にはでてこないのではないか」とまで言います。

5.どうも、九条をめぐる議論が
(1)政治家を含めて、法律論ではなく、素人論議の自己主張として出てくることが多いこと
(2)改憲・護憲ともに感情的な議論になって、合意形成のプロセスが不可能になる状況にあること

を考えると、私たちも、憲法についてもっと勉強をして、専門家の意見や著書をよく聞き・よく読んで、その上で、理性的・現実的な思考を積み重ねる必要があるのではないでしょうか。


憲法と平和を問いなおす』の最後に、日本国憲法立憲主義にもとづく典型的な法典とした上で、彼はこう結びます。

立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性にもとづいてはいない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、いまも少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(ぎょうこう)である」


改正の必要があるか否かはこの際措くとしても、私たちは良い憲法を持っていることをまずは理解してほしい・・・
と長谷部さんは語りかけています。