国家と個人:ジョン・グリシャムの小説『The Racketeer』の場合

1. 前回は6月23日以降モスクワ空港の乗り継ぎエリアに滞在中と言われるエドワード・スノーデンを取り上げました。
ヴェネズエラ政府が受け入れを表明しているが、飛行機がアメリカや友好国の領土上を飛ぶ場合の、強制着陸を命じられるリスクを考えると、どういうルートで飛んで行けるかが難問のようです。

私が彼に関心を持っている大きな理由に、「国家」に個人がどう向き合うか?それは日本とどう違うか?に興味があるからです。

この点で私のフェイスブックに、在米20年・しかも後半は自分で会社を立ち上げて活動してきた「自立独行」の某さんから、「エドワードは個人の資格でアメリカ政府に戦いを挑むと思います」というコメントを貰いました。


ということで、全く違う話ではありますが、個人とアメリカ国家という視点から、最近興味深く読んだジョン・グリシャムの近作『脅迫者(The Racketeer)』(2012年)に少し触れたいと思います。


2. ジョン・グリシャムは、アメリカの司法や裁判(特に陪審制)、弁護士活動などを取り上げる、いわゆる「法律(リーガル)サスペンス」といわれる娯楽小説の第1人者です。苦学してミシシッピー州立大(「オール・ミス」の愛称で知られる名門校)のロー・スクールを出て、自ら刑事事件を専門にする小さな弁護士事務所を開いたこともあります。
30冊近い小説の全てがベストセラーになり、もちろん邦訳もあり、映画化もされた
『法律事務所(The Firm)』『ペリカン文書』などよく知られています。
比較的易しい英語なので、私はいままでに半分近い13冊ほど読んでいます。

処女作の『表決のとき(A Time to Kill)』は、南部の人種差別を背景に「正義とは?」を考えさせられる力作です。
・・・1980年代、ミシシッピの田舎町で不良白人に10歳の娘をレイプされた黒人の父親が、白人ばかりの陪審では無罪になるだろうとおそれて(60年代そういう事例は実際に無数にあった)、裁判の場で犯人を射殺してしまう。
彼の弁護を引きうけた主人公は、裁判官や陪審員に対して、どのような論理を展開するか?陪審は彼を有罪・無罪のどちらにするだろうか?国家の裁きを待たずに、自らが「正義」と考える行動をとることは市民として許されるか?・・・


3. 最新作の『脅迫者』は上とは全く異なる物語ですが、ここにも日本では考えられないような個人と国家の接触が描かれます。


(1) まずは、私は初めて知ったのですが、アメリカ連邦刑事訴訟法には、「密告や告発」を奨励する規定35というのがある。
(2) これは、アメリカ国民は誰でも(罪を犯して服役中の罪人でも)未解決の事件に役立つ情報を提供した(例えば、真犯人を知っていて告発した)場合は恩恵(罪人であれば減刑)を受けるという規定。
(3) もちろん、検察や司法当局が認めることが大前提だが、少なくとも制度としてこういうことが可能である。


4. ジョン・グリシャムの小説は刑務所に服役する主人公Aがこの規定を利用してアメリカの司法当局と取引する話から始まります。


(1) Aは黒人のもと弁護士。所属する弁護士事務所が不注意で何も知らずに、連邦警察が追っている人間のマネー・ロンダリング(不正な資金洗浄)取引の法的処理を引き受けてしまい、Aがその仕事を担当する。
(2) 関係者が逮捕され、Aは「知らなかった」「過失」と主張するが、裁判所は主張を認めず、仲間と共謀したと判断し、10年の禁固刑となり刑務所に入れられてしまう。
10年もの重罪を犯したとは思えないAは司法制度に深い不信と怒りをもち、復讐を考える。

(3) そのための手段として、当然ながら法律に詳しいAは上記の規定35の利用を考え、5年経ったところで好機到来と判断する。
 すなわち彼は
「いま新聞で大騒ぎになっている迷宮入りの凶悪殺人の真犯人を、自分は知っている」と名乗り出る。
検察は彼を何度もインタビューした上で、虚偽の発言ではないようだと判断し、最終的に彼の主張を取り上げて、司法つまり国家とAとは対等の立場で「契約」を取り交わす。
(契約書には彼と司法長官=日本の法務大臣が対等に署名する)
契約の主な内容は以下の通り。
・ Aは真犯人Bの名前を検察に知らせる
・ 検察はBを逮捕して尋問する
・ その結果Bの有罪を確信し、起訴を決めた時点で、Aは刑務所を出て自由の身になる。と同時に、検察すなわち国家からあらゆる「身の保障」を与えられる。
(Bやその関係者からAは命を狙われるリスクが出てくる。Aは裁判で証人に立つので、検察の立場からも彼の身の安全は大事)
・おまけに本事件には15万ドルの懸賞金がかかっているが、Aはそれも貰える。

5. 以上がこの物語の発端です。
もちろん刑務所に居る罪人が別の凶悪事件の犯人を知っているという想定(刑務所で同室だったある罪人BがAを信用して、いまの刑期を終えて出所したら、こういう犯罪を考えているとあらかじめ喋ってしまうような場合・・・)は現実にはまず起こりえないでしょうから、いかにも小説の世界だといえばその通りです。


但し、私が興味を持つのは、以下は作者のフィクションではなく制度としてアメリカに存在するということ
(1) 別にAが(刑務所に居る)罪人でなく、普通の市民であっても、
彼・彼女が「証人」として犯人を告発することを大いに奨励する制度がある
(2) しかも、その場合、告発された犯人は当然に「証人」を恨むだろうし、何らかの仕返しを考えるリスクが大きい
(3) そこで国は、この制度を効果的にするため、「犯人」と関係者から「証人」の身の安全を守るための徹底的なプログラムを実施する、
ということです。


必要があれば、もちろん全て国の費用で、「告発者・証人」を「別の人間」にしてしまう。国家が率先して偽の名前を作ってやり旅券も新しくし、必要があれば、国外に逃がす。整形手術まで国の負担でやってやる。
(この小説でも主人公は全て国の責任と負担で、整形手術を受け、名前を変え、全く別の「アメリカ人」になります)

6.グリシャムの小説では、FBIの人間が
「いままでに8000人以上の証人をこのプログラムで守ってきたが、1人も被害に遭っていない」と主人公を安心させる場面があります。

いかに小説とはいえ、5に書いたあたりはフィクションではないでしょう、
アメリカと言う国は個人との関係が日本とは全く異なる、両者が対等に「ギブ・アンド・テイク」でつながる「契約社会」の論理で動いている、と言えるのでしょう。

そして、エドワード・スノーデンが「戦いを挑んでいる」のは、こういう、合理的というかドライというか、そういう国家なのだ、と考えています。