「兄居りしことの証や広島忌」と日本国憲法


1.1週間ぶりの更新で、お礼が遅れました。
柳居子さん、南十字星さん(素敵な名前ですね)有難うございます。オーストラリアからのお便り心に沁みました。
他人の不幸な物語を読むのは決して楽ではない筈です。感謝しております。

2.更新が遅れたのはお盆休みで休暇をとった家族が田舎に遊びに来てくれたこともあります。

この時期豊富にある地元の野菜(JRの直営店では地元直送と銘打った、生産者の名前入りの農産物が所狭し、と並んでいます)や、角上諏訪店という、諏訪湖の近く、海のない山国なのに新潟寺泊から毎日運んでくる魚介類を口にしました。外食よりはるかに手軽で安価で、便利な世の中になったものです。

3.言うまでもなく、8月は68年前の原爆や地方都市への空襲、そして敗戦へと続く、悲劇と激動を思い起こす(といっても70歳代以上の人にとってでしょうが)時期で、毎年日経の俳壇の選者黒田杏子さんの選句はこういう主題に集中するという話を前回のブログでしました。


今年8月11日の日経「俳壇」は選句10首のうち7つがこういう主題の詩(うた)になっています。
1位は「兄居りしことの証(あかし)や広島忌」
次いで「原爆忌有る国に老い無策なり」
原爆忌今さらに聴け死者の声」
そして「乾坤(けんこん=天地)やひめゆりの塔灼(や)けに灼け」・・・・等々。


4.俳壇の載った同じ日の日経読書欄には「現実味帯びる憲法論議、ぶつかる改憲VS護憲」と題して、日経の論説委員長が、
「いよいよ憲法の季節がやってきた・・・・・
書店の店先を覗けば憲法の本がいっぱい並んでいる」と書き、今出ている書物の幾つかを紹介しています。

私の場合、大学で憲法の授業を学んで、50年以上経って、改めて今回、

戦後すぐの日本国憲法成立の経緯について書かれた書物を再度読み返したりチェックしたりして、大雑把な理解を以下に記録しておきます。
(また、硬くなりますが)
参考にしたのは、主として『史録日本国憲法』(児島襄、文芸春秋)と『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー、岩波書店からの邦訳、とくに下巻の第12章、第13章)です。
専門の研究書を読む気力も知力ももうありませんが、2冊とも広範な1次資料を参照しており、十分評価に耐える啓蒙書と思います。

特に今回は、憲法成立の経緯をふまえて「当時のマッカーサー総司令部(以下GHQ)が日本に押し付けたアメリカ製の憲法だ」という言説を簡単に整理してみたいと思います。

「押し付け」だって中身がよければいいではないか、という議論も成り立つでしょう。しかし少なくとも改憲論の理由の1つに「日本人による自主性のある憲法を」という主張があります。

5.まず現憲法の草案が、確かにGHQが作成したものだったということは誰でも知っている事実で、この間の経緯は以下の通りです。


(1)憲法の改正がなぜ必要だったかは1945年7月のポッダム宣言にまでさかのぼり、米国は日本占領直後から改正に動き出し、10月9日には政府に指示(その前に近衛文麿も佐々木惣一京大名誉教授に諮問して検討を始めたが・・)。

(2)政府は松本蒸冶国務大臣(商法の権威)を委員長とする委員会をつくり、法制局の幹部の他美濃部達吉宮沢俊義等の憲法学者を委員にして、1946年2月初めに「改正要綱」を完成。

(3)この内容が毎日新聞のスクープでGHQの知るところとなり、その保守的な内容(とくに天皇大権を維持し、国体を変えない)に驚いたGHQは,急きょ民生局25人にて草案の作成に着手、2月12日に完成。

(4)その事実を知らない松本は13日に閣議の了承を得た政府憲法案(改正要綱)をGHQに提示したところ、GHQ草案を逆提案される(松本は驚愕し、憤激した、と伝えられる)

(5)この後、折衝や交渉による修正も行われたが、政府は閣議GHQ草案を「拒否できない」と判断、天皇にご進講の上(「天皇最後の聖断」と児島はいう)3月6日、政府は天皇勅語とともに憲法改正を発表した。


6.以上のように、アメリカ側からアメリカ製の憲法改正案を押し付けられた、と言えば、その通りだと思います。但し、以下の点も同時に指摘しておく必要があるでしょう。

(1) 政府案がアメリカから見てあまりに保守的だったこと。特に天皇の大権や基本的人権の規定の不足。前者については後述(4)のように日本のためにも肯定できないと考えた。


(2)この時期、4つの政党を含めて12の「民間改正案」が出ており、何れも政府案よりリベラル、うち天皇制廃止を提唱するラディカル案2つあり、その中でGHQはリベラルな「憲法研究会」の案に注目し、「GHQ草案」の参考にした。


(3)これは加藤周一やジョン・ダワーの意見だが、GHQ草案は「日本政府」への押し付けではあったが、果たして「日本国民」への押し付けだっただろうか?という疑問。
その証拠として加藤は、戦争放棄への賛成が70%、象徴天皇制への賛成が85%にのぼっているとする1946年5月27日の毎日新聞に載ったアンケート調査を紹介している。

(4)最後に、アメリカの他の戦勝国とくにソ連や中国への警戒心があったという。
この点は主としてアメリカ側の資料を児島襄が解釈したもので異論がありうるが、彼の解説によれば、
・ 対日占領政策を仕切る「極東委員会」の設置が決まり第1回委員会が1946年2月26日にワシントンで開かれることが決まった。
アメリカとしてはそれまでにアメリカ主導で憲法改正を実現しておくことが戦略上重要と考えた。
・ 特に大きいのは天皇の問題であり、アメリカは戦後の日本に天皇制は必要と考えて、東京裁判での天皇戦犯の意見には反対であった。
対してソ連等は違う意見であり、天皇制廃止の主張も存在した。
従って、極東委員会が「憲法改正を最終的に決めるのは自分たちだ」と言い出す前に、既成事実を作っておく戦略をとった。
というものです。


多少の読み違いもあるかもしれませんが、
いわゆる「日本国憲法アメリカ(GHQ)押し付け論」についての私の理解は以上の通りです。