ケネディ大統領暗殺50年とタイム誌記事とダラス


1. ケネディ大統領(以下JFK)が1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺されて今年は50年。
「没後も輝く伝説」と見出しに掲げた22日の東京新聞によると、「ケネディ間連の本・雑誌は過去3カ月で100冊以上出版され、テレビも連日、特集番組を放送している」とのこと。
シドニー在住の日本人の友人から「当地もメディアの報道・回顧が多いが日本はどうか?」とメールが来ました。

日本の場合は、まさにこのタイミングで、当時5歳だったキャロライン・ケネディ氏が駐日大使として赴任したことも話題性を高めています。『50年目の「真実」』と題する大部の訳書も本屋を飾っています。


もちろん良く知られている事件で、インターネットでも
ケネディ暗殺

Youtube
動画を含めてたくさんのサイトがあり、珍しくもありませんが、その中で、タイム誌11月25日号特集記事中の「アメリカを変えた瞬間=失われた信頼」と題する記事(写真を入れて10頁)は紹介する価値があると考えます。

実に良く知られた悲劇だが、今も真実が明らかにされていないと信じるアメリカ国民が大多数、というのが大きなポイントです。


2. 記事は「50年経っても、陰謀説はアメリカ国民の心理に根強く生き続けている。果たして事件が幕を下ろす日が来るだろうか?」というリード文で始まります。
まずは、どういう状況なのか?

(1) 事件後直ちに、最高裁長官アール・ウォーレンを委員長とする調査委員会がジョンソン大統領の指示で発足、7カ月かけた調査の結論は、もと海兵隊員でソ連に亡命したこともある自称・共産主義者、24歳の「オズワルドの単独犯行」とするもので、これが現在も政府の公式見解。
(2) しかし、世論調査によると国民の6割から8割が、直後から今に至るも、「真相は明らかにされていない」と単独説を疑問視している(最近の発言ではケリー国務長官を含めて)。
(3) 上の公式調査とは別に、様々な調査がなされ、下院までが独自の調査委員会を実施したが、「単独説」に疑問を呈するにとどまり、別個の結論を提示することは出来ていない。
(4) ということで、国民の大多数にとって事件は、今も「癒されることなく」アメリカ社会には暗い闇の部分があるのではないかというトラウマとなって、50年続いている。
(5) かつ、多くの情報が流されることで、いわば格好のビジネス(「陰謀産業The Conspiracy Industry」)ともなっている。


2. 次に、「オズワルド単独犯行」を否定する論者が、どういう「容疑者」を陰謀の主役と考えているか(もちろん何れも立証はできていないが)ですが、これも良く知られているので簡単にしますが、

そもそも「オズワルド」が関わっていたか?いなかったか?の両説あり、
その上でタイム誌は、テキサスの石油業者(右翼・石油利権を代表)、マフィア、CIA中央情報局、ジョンソン大統領、、軍部の一部、カストロ・・・等をあげています。
地元テキサス出身のリンドン・ジョンソン元大統領まで「容疑者」リストに入れているのは驚きですが、2期目には副大統領候補から外されるというもっぱらの噂で黒幕の1人である可能性がゼロではない、ということでしょうか。事件前後の言動に不可解なところがあったという説もあります。

3 それなら、なぜ(立証できないにも拘わらず)「陰謀説」が根強く生き続けているのか?
「オズワルド単独犯行」と結論づけるには、「不可解なこと=謎」があまりに多く、それが解明されていないからです。
この点もよく知られているので詳しく触れませんが、
(1) 南部テキサスのダラスという場所が反JFKの温床であった――右翼・石油成金の本拠として知られ、反JFKキャンぺーンの動きもあり、危険が十分予想されたにも拘わらず、防備が十分ではなかった。
(2) 例えば、なぜ無防備のオープン・カーでパレードしたのか?なぜ、きわめて狙撃されやすい場所を時速16キロという速度で選ぶ順路を選んだのか?(直前に変更された)

(3) なぜ、後方から2発命中したと結論づけたのか?(前方から銃の音が聞こえた、射撃する姿を見たとの証言はすべて無視されて)
・・・等々、タイム誌は10以上の疑問が今も不可解なままとしています。
言うまでもなく「自分は犯人ではない。罠にはまったんだ」と叫んだオズワルドがすぐに殺され、その動機も上の発言の真意も闇の中です。

4.私は、この事件についてさほど深くフォローしておらず間連の本や映画(オリバー・ストーン監督の1991年映画「JFK」が有名)も中味を知りません。
しかし、人並み以上の関心を持っているのは、ダラスが、一時期住んだ場所だということがあります。


私事ながら、大昔の27歳のとき、1966年末から6カ月強、アメリカの銀行制度を調べる研修生として、生まれて初めて日本を離れて暮らしたのが、ここダラスでした。
なぜ南部の田舎に?と思うかもしれませんが、当時ダラスは、金融・綿花・石油業で栄える、アメリカでも有数の豊かな都市であり、おまけにNY等と違って当時は日本人も殆どおらず、英語を上達するには最適の場所と、銀行の人事部が判断したのでしょう。6年先輩、3年先輩に続いて私のダラス研修は3人目でした。レポートも書きました。


まだ日本が高度成長始まったばかりの貧しかった頃、ひとり遠く離れた異国で、コカコーラの元役員の未亡人の家にホームステイし、銀行の拠点のあるNYや加州とも遠く、テキサス州だけで日本の2倍以上の面積がある広大な・しかも誇り高い豊かな町、しかもまだ人種差別がおおっぴらな町で暮らすのは、強烈な経験でした。
因みに、テキサス人はメキシコと戦って独立し(「アラモの戦い」が有名)、アメリカ合衆国に加盟するまでの約10年独立国だったことがあり、「ローン・スター・ステイト(一つ星の州)」という愛称を持つ、誇り高い人たちです。

当時「ダラスは21世紀には世界の中心になる」と半ば本気で公言する人も居て、「はるばるやって来て、なぜお前は貧しい日本に帰るのか?ここでアメリカン・ドリームに挑戦したらよいではないか」と何人かに言われました。
しかし滞在したときはJFK暗殺からたった3年。アメリカ中から「ダーティな都市」と植えつけられたイメージを誇り高い住民がどう受け止めたか?
当時、この事件について語ることはほとんどタブーで、私も、暗殺現場を何度も訪れましたが、話題にしたことはありませんでした。


ということで、最後は個人的な思い出になってしまいましたが、JFK,ダラス、テキサス・・・は、私の20代後半の青春の一時期と深く結びついて、忘れることはありません。