世田谷市民大学新学期と福沢諭吉


1. 桜の花は徐々に北上中。北国でも咲きだしました。
標高1300メートルの高地は例年5月が桜の季節で、先週は今年初めて長野・蓼科高原の田舎の家を覗きに行ってきましたが、まだ花も緑も無く、春遠しの感。途中、中央高速に乗って、山梨県のあたり、釈迦堂という休憩所の近くに「桃源郷」と呼ばれる一帯があり、桜も桃も満開でした。


2. 新年度に入って、新入社員も新学生も緊張した日々を送っていることでしょう。
世田谷市民大学も3日に開講式があり、今日から授業が始まりました。
この市民大学、私は京都から戻って、2011年4月から学生になっており、4年目ですが、卒業も単位も試験もなくいつまでも在籍できます。
しかしなかなかレベルが高く、とくに「ゼミナール」が参加意識も出て楽しいです。
開講式では、学長の間宮京都大学名誉教授(専門は社会経済学)の挨拶がありましたが、「ここのキーワードは、強制されてではなく、自主的に学ぶ、自己教育と相互教育に狙いがあり、とくに後者はゼミにおいてもっとも発揮される」と言われました。
「最近は、大学は国からの締め付けが強く、教員や学生の余裕がなくなってきた。
他方で、市民大学は、世田谷区は経済的・人的支援をするだけで、教科や運営には一切口を出さず、締め付けもなく、教授会に相当する運営委員会と学生に任されている。
これが本当の“パトロネージ”のあり方だと思う」とも。

区が期待しているのは、大学での学びを通して“市民力”を高めることにあろう」という発言もありました。


“市民力”とは何か?を補足して、間宮氏は、「新国立競技場」のプランを事例としてあげて、世界的な建築家の槇文彦氏が、「ジェラシック・パークのようだ」と批判し、「日本にはまだ市民社会ができていない」と発言していること、また同じ設計者によるスイス・バーゼルのコンサートホール設計プランを市民の反対運動で白紙にした事例も話されました。

(2)学長の挨拶に続いて、区長の挨拶、さらに前学長・現運営委員の1人である米山慶応義塾教授による「市民の学びと「実学」――福沢諭吉を手がかりに」と題する記念講演がありました。
区長によると、世田谷区は人口88万、これは7つの県より多い。しかし、区であるため例えば調布市より、行政の自主性は少ない、とのこと。
ご多分にもれず財政は厳しいようで、こういう無駄な(?)事業を支援することへの批判もあり、今年度から残念ながらカリキュラムなど少し規模が縮小されました。
34年も続いている、伝統ある市民大学の発展を願うものです。


記念講演の米山教授は、世田谷市民大学がなぜ「区民大学」ではなく「市民大学」なのか?から始まり、福澤諭吉が初めて「社会教育」という言葉を使ったこと、彼は「実学」の必要を唱えたが、その「実学」とは西洋の文明を元にした「総合的な学問=リベラるアーツ」であったこと、市民の学びが「社会=人間交際(じんかんこうさい)」につながること、間宮学長の言うようにだからこそ「ゼミ」が大事であること、などを福沢の言葉に即して話されました。
因みに、米山さんの「福沢諭吉を読む」というゼミに参加していますが、正式のゼミは2年で終わりですが、この4月から4年目に入り「自主ゼミ」と称してまだ続いています。ゼミ生は10人に減りましたが、月に1回、慶応の三田キャンパスの研究室で開かれています。米山先生の人柄もあるでしょうが、これも魅力ある「人間交際」の事例だろうと思います。

3. ということで14日(月)から授業が始まりました。
私がとっている正式のゼミは2年目に入った「日中関係史」、指導教員は高原明生東大教授です。
(1)講義は半年ごとに変わりますが、今学期の1つは「政治学民俗学」と題して、石川公弥子さんという若い先生、学習院大学非常勤講師。
第1回は「イントロダクション」ですが、なかなか面白そうな講義でした。
政治学民俗学」とはちょっと妙な題で、両者の関係がいまいち分からなかったのですが、
民族学は日本の伝統、習俗・風習・行事などを調べる学問と思われているが、実はそこでいう「伝統」とは政治的に創られたものだという認識において、民俗学はきわめて政治的な学問なのだ」という問題意識を話されました。
こういう理解を、2回目以降は具体的に「柳田国男」と「折口信夫」のテクストを読み、2人の思想を読み解くことで実証していきたい、という講義計画です。

(2) 日本近代において「創られた伝統」というのは?
例えば、昭和天皇の葬儀は神式で行われた、
しかし、幕末まで天皇の葬儀は仏式であり、火葬であった。
また神前結婚式は1900年の大正天皇からであり、それまでは普通の日本人と同じく、人前結婚だった・・・・
だから「古式ゆたかに〜」という言い方をマスコミは好んで使うが、伝統文化といわれるものが、本当に古来のものか意識しなければならない。このように、意外に近代の産物であったりすることがある。

(3)また例えば、日本人の伝統=「和」の精神、あるいは「日本人=おもてなし」という理解も、「伝統」かどうか疑わしい。近代日本の産物ではないか?
「和」の精神を表すものとして必ず取り上げられる聖徳太子憲法17条「和を以って貴しとなし〜〜」について言えば、そもそも聖徳太子が高く評価されるようになったのは1930年代以降である。この言葉も「和」がないからその必要を訴えたと受取ることもできる。
そもそもこれをあらためて持ち出したのは、1937年の文部省発行「国体の本義」であり、ここで「日本の建国以後の歴史を見ると、常にそこに見出されるのは和の精神である」と言い、
「我が国においては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じくするところより出づる特有の大和(だいわ)によってよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、我が終局であり、破壊をもって終わらず、成就によって結ばれる。ここに我が国の大精神がある・・・・聖徳太子憲法17条に、和を以って貴しとなし・・と示したもうたのも、わが国のこの和の大精神を説かせられたものである」

石川さんはこの文章について
天皇を中心として一致団結するための「創られた伝統=和」であり、
「実際はそうでないから、望ましいものが意図的に文章化される」と言います。

異論のある方もおられるでしょうが、「和」は実は日本古来の精神ではなく、「近代になって創られた、日本の“伝統”である」という問題提起は一考の価値があるように思います。
すでに福沢諭吉は、この点を理解した上で、だからこそ
「自由は多事争論にあり」と主張したのでしょう。