「日本ではペストに相当する大変なことが〜」


1 今週の週末の東京も五月晴れ。この陽気のせいか、あるいは前回ちょっと触れた老人性特有の症状への懸念か、分かりませんが、4月28日・5月5日ブログへのそれぞれ海太郎さん柳居子さんのコメントへのお礼を忘れてしましまいました。遅くなりましたが、失礼のお詫びとともに有り難うございました。
「また、やりましたね」と言われそうですが・・・


2. それで思い出したのですが、14日(水)NHKのテレビ中継で大相撲4日目を見ていたときのことです。
この日は新進気鋭の遠藤が鶴竜を寄り倒し、初の金星を挙げましたが、その前にベテランの、いつもひょうひょうとした趣のあるベテランの平幕・安美錦大関琴奨菊を破りました。
勝利のインタビューがあって、その時は遠藤関の相撲も終わっていましたが、アナウンサーがいきなり「やりましたね!」と声をかけると、安美錦の方はすかさず
「えっ、遠藤ですか?」と返しました。
このおとぼけ、なかなか味があって、私は大いに気に入りましたが、もちろんNHKのアナウンサーは真面目ですから、無視してすぐに次の質問に入りました。「あれ、安美錦関の本名も遠藤でしたっけ?」なんて返したら、不謹慎だと、一部の視聴者から怒られるでしょうか?


3.何事も「ユーモアと余裕が大事」と感じた、小さな出来事でした。
そんな気持ちにさせてくれる週末のうち、土曜日は、この素晴らしい陽気の中を、北沢川緑道を歩きました。
緑道の整備は区役所の職員だけでなく近隣の住民のボランティアで支えられています。
それと、世田谷区の助成があるせいもあってか、まわりの家々も、鉢植えを置いたり、花を咲かせたりして、日本の住宅地も、最近は、落ち着いて・美しく・余裕が出てきた感じがします。

もっとも私はと言えば、この陽気のもとを美しい緑道を歩いて、行き着く先は、梅ヶ丘区民会館という古い・暗い建物の中。
そこで午後1時から4時間もかけて、主として高齢の男女20人強が、読書会と称して、前回も触れたカミュの『ペスト』について賑やかに語り合いました。これも「余裕」かなと私は感じましたが、「・・・・アッと言う間に感じる4時間・・・1冊の文庫本をめぐり、大の大人たちがこんなにも色んな話しをし合うというのはなかなかだなと感じました。」とはメンバーの1人の感想です。
その前に、前回のブログにフェイスブックに頂いた感想の一部を紹介します。
「日本ではペストに相当する大変なことが起きています。東日本大震災の復興が進まず、住民だけが苦しんでおり、日本の大部分の国民はあれはもう過去のものと誰も興味を示さなくなっていることです。アメリカ人のボランテアの人からメイルが入り私も相当の寄付をしました。カミュがいたらどう思うでしょう?・・・・」


「余裕」の影に苦悩あり・・・・全く、ご意見の通りではないか、と返事するしかないのが残念です。
本書の訳本のいちばん最後で主人公のリウーと「ぜんそく持ちの爺さん」と紹介される患者の1人との会話が記されます。
「いったい何かね、ペストなんて?つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」
カミュがもっとも大事にする思想は「不条理」と「反抗」の2つと言いますが、この「爺さん」、訳者の解説によると、「「老年」に達したことによって「不条理」に目覚めた「不条理人」」とあります。
彼にとっては、人生がそもそも「ぺスト」、生きることは、何れ死ぬことを含めて、ペストの中で生きること、こういう醒めた認識の中に時を過ごしている。だから20万の市民が大恐慌をきたしても彼一人変わらない。
そしてペストが収束すると、こんな皮肉な会話をリウーと交わします。
・・・・「ねえ、先生、ほんとですかい。ペストの死亡者のために記念碑を建てるっていうのは?」
リウーがそうらしいねと返事すると彼は続けます。
「きっとそう来ると思ってたよ。そこでまた、演説があるってわけだ」
爺さんは、のどに引っかかったような笑い声を立てた。
「こうしててもその声が聞こえるようだね ――<我らの犠牲者は・・・>なんてね。それから、みんなでぱくつくってわけでさ」・
・・・・・
4.読書会では、この「爺さん」にだけカミュは名前を付けていない、なぜだろう?という質問が出ました。
会の議事進行は私が担当したのですが、司会をしていてこういう質問が出るとちょっと嬉しくなります。私が4度も読んで思いつかなかった疑問だからです。そう言えば、お医者のリウー(語り手)、友情を結ぶタルー、神父のパヌルー、新聞記者のランベールといった主要人物の他にちょっとしか登場しない殆どの人物にカミュは名前を付けている。しかし「爺さん」は最後まで「爺さん」である。
誰かが手を挙げて
「それは、この爺さんが、いわば、どこにでも居る市民あるいは庶民を指しているからではないか」
という意見が出ました。
もちろんカミュがどういう意図を持っていたかは分かりません。「そんなこと自分でも考えなかった」と言うかもしれない。しかし、この意見を聞いて私を含めて、誰もが“なるほど”と納得したことも事実です。
そして、それが、読書会の、いろんな人が集まっていろんな意見や読み方が表明される面白さだろうと思います。

5. 最後に、紙数がなくなりましたので簡単に触れますと、『ペスト』で名前が付けられていない人物は他に、語り手リウーの妻と母という2人の女性が居ます。
この2人は殆ど登場しませんが、重要な存在です。しかし、2人は最後まで「妻」として「母」としてだけ存在します。
そもそも、この小説には、ぺストと戦う、いわば、現代風に言うと「自立した」女性は1人も登場しません。あたかも「不条理な人間」は男性のみ、とでも言っているようでさえあります。
そして、リウーの「母」について、ある解説者は以下のように書きます。
「タルーの死に傍らにあって最後まで看取りつづけたリウーの母の姿も印象的である。それは、あたかも十字架の傍らに立つイエスの母マリアのようにさえみえる」・・・
もちろんカミュは、極度に貧しかった、20代で第1次世界大戦で戦死した夫を亡くした、殆どろうあ者に近かったという、静かで物言わぬ、愛してやまなかった自らの母をここに投影させていることでしょう。