「入りてしまらく」と信濃路の島木赤彦


1. 前回のブログでむし暑い6月の第1週に3度も都心の六本木に出掛けたと書きました。
1度は、国立新美術館で開催された「日洋展」という展覧会に出掛けたものです。年下の友人が、会員の1人で出品しているので見てきました。
ほぼ全員が100号の大作で、それが1000点以上陳列されており、圧倒されます。見に来ている人は友人知人が多いでしょうが、高齢者が多く、ということは出品者もそうだろうと思います。元気で絵を描くお年寄りという文化あふれる日本のイメージでしょうか。

2. 専門的なことは一向に分かりませんが、出品作すべて一定の水準以上でしょう。
友人の作品も「入りてしまらく」と題する印象に残る絵でした。
小説でも絵画でも、中味は別にして、どうでもいいようなことですが、私はかねて、題名に興味が惹かれます。書く人・描く人の中にも、結構題名に拘る人と、あまり気にしない人と2種類があるかもしれません。
たびたびこのブログで紹介する、カズオ・イシグロの『日の名残り』も原題は“The Remains of the Day”ですが、どちらもいい題名だなと思います。


「日洋展」の約1000点の目録を手に、そんな好奇心も持って眺めて歩きました。
題名はそれぞれに工夫して付けていますが、同じ題名・似たようなのも当然あって、「静物」「想い」「思い出」「祈り」「浅春の〜」「春近い〜」「〜の記憶」なんていうのは少なくありません。たしかに付けたくなる気持ちもわかります。
「サンジャミーノの家並み」や「スペイン、サグラダ・ファミリア聖堂」のような、海外旅行で描いたと思われる作品も少なくありません。
中には、絵は具象ですが抽象的な題名もあって、下の写真には「究極の対称性、1-0は神の数式である」と題されていて、面白いから撮ってきましたが、意味は私にはさっぱり分かりません。おそらく作者も気分で付けた題ではないかなという気がします。

3. その中で友人の「入りてしまらく」というのは色合いの実に良い絵ですが、題名が無学な私には分からず、気になりました。
帰宅してから調べると、広辞苑に「しまらく」は「暫くと書き、しばらくの古形」とあります。
なるほど、日が山の端に沈んですぐの風情を絵にしたもの、なかなか凝った洒落た題名だと感心して、念のためと思って「入りてしまらく」でネット検索すると、ちょっと驚きましたが、ちゃんと出てきました。

最近は、グーグルやヤフーで殆どの情報が検索できるのだと改めて感心しました。便利と言えば、まことに便利ですが、こんなに容易に・簡便に・努力せずに(ちょっとPCをいじるだけで)情報や知識が手に入るというのは果たしていいことかなという気もしないではありません。
古巣の大学の研究室で、殆どの教員が、書物なんか拡げないでずっとPCに向かって検索し、情報を読み込んでいる光景を思い出しました。フィールドワークをしたり古いお蔵から持ち出した古文書を拡げたりする研究者なんて、今は流行らないかもしれませんね。

4.「入りてしまらく」で検索して出てきたのは、以下の島木赤彦の短歌です。
―――信濃路はいつ春にならん夕づく日、入りてしまらく黄なる空の色――

島木赤彦は、斎藤茂吉等と親しい歌人です。
早速書棚から「日本詩人全集5巻伊藤左千夫長塚節・島木赤彦・・」を出してきて「しまらく」読みふけりました。

・1876年(明治9)年長野県上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、父は教育者。
・いまの茅野市、当時の諏訪郡豊平村南大塩小学校に入学。
長野師範学校を卒業、教員となり、泉野・玉川などの小学校の教員となり、35歳で玉川小学校の校長となる。
・38歳で退職、上京し、『アララギ』の編集を手伝いながらもっぱら句作に従事。
・1926年、1月胃がんの診断をうけ、郷里に帰り自宅で療養するが、3月27日逝去。享年50歳。

斎藤茂吉に「島木赤彦臨終記」という文章があります。度々東京から見舞いますが、最後は亡くなる前日、前々日の夜行に乗って上諏訪着は午前5時過ぎ。
雪の中を人力車と徒歩で友人とともに訪れる。
主治医は「きのう以来帰宅せずにまったく赤彦君の枕頭を護られたのであった。」
そして約40名の親族や友人が看取る中、「(赤彦君は)純黄色になった顔面から、2日前に見たような縦横無数のしわが全く取れて、そのために沈痛の顔貌はごく平安な顔貌に変わっている。そして平安な息を続けているけれども、意識はすでに清明ではなかった・・・」
から
「友島木赤彦君はついに没した。痩せて黄色になった顔には・・・・柿の村人時代の顔容をおもい起させるものがあった」
の最期まで、本職が医者だった茂吉らしい冷静な筆致で綴ります。
この当時、死は病院の中ではなく、ごくごく身近に溢れていたのだろうなと思います。

4. 「信濃路は〜」の歌は、病中にあって2月に詠んだもので「アララギ」に載りました。13日付の前言に
「昼夜痛みて呻吟(しんぎん)す。肉痩せに痩せ、骨たちにたつ」とあり、
2首前には以下の歌があります。
――隣室に書(ふみ)読む子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり ――

信濃路は〜」についてネットで以下の解説を目にしました。
―――信濃はいつ春になるのだろう。夕日が沈んでしばらくは、空が黄色になっている。
・・・・信濃の冬の寒さは格別である。そして春は遅い。冬の夕空は、赤ではなく黄色である。まだ寒々としている。自分は春を迎えられるだろうか・・・・
茅野の山奥の春は今も遅いです。先週末、老妻と短い滞在をしました。こなしの花は終わっていましたが、家の近くでおおでまりがきれいに咲いていました。

短い春は5月の連休ぐらいから始まります。今でも3月になってもかなりの雪が降ります。
実は、私の田舎の家は、茅野市豊平というところで、赤彦がかって勤めた小学校は今も残っており、車で5分ちょっとのところです。泉野小学校は同じ場所かどうか知りませんが、すっかりきれいな校舎になり、玉川小学校の方は校門を入ると右に、ニ宮尊徳の像が、左に赤彦の、もう殆ど読めなくなった石碑が立っていて、「寂しめる下心さえおのずから、むなしくなりて明(あか)し暮らしつ」とあります。
上京後、死の5年前の歌。小学校の校門横に置くにはちょっと孤独すぎる歌のように思いますが、石碑が建てられた時代には子どもでも、こういう感覚が珍しくなく理解されたのかもしれません。
それにしても絵にこういう題名を付けた、友人Sさんの教養と知性に感心しました。