アサーションとは?とセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団

1. 前回のブログへのコメント、arz2bee さん池田さん、FBの野田さん木全さん等まことに有難うございます。
「最近は医学部でも留学する人は減っています。決めつける前にまずは異文化体験を!」―ご指摘の通り、日本の方が進んでいるから学ぶものが無いと思うのではなく、「異」に接触し、「違い」を知ることが大事ですね。

2. 豪州に暮らし、日々異文化と接触し「自己を発見、成長している」と語る2人の日本人女性のコメントも興味深いです。
TAFEという『さようなら、オレンジ』にも出てくる州立の専門学校で語学を学ぶ女性からは、まさしく「マルティカルチャリズムの現場そのもの」で移民政策を肌で感じ、豪州は「フェアな国だと思う」と書いて下さいました。


また先生に「この国ではassertiveであれ」と教えられたそうです。
この“assertive”という英語は私にはなかなか分かりづらい、かつ使いづらい英語です。英和辞典には「断言的な、独断的な」とあり、ややネガティブな印象を与える。

ところが彼女の聞いた説明は
「どんな状況でも、感情的にならず、落ち着いて、自分の意見をハッキリ述べる」という先生の説明で「aggressiveなタイプは、ここの社会では認められない。かと言ってpassiveも受け容れられない」という補足だったそうです。
しかも、クラスには「母国で社会的マナーを身につけなかったのではないかと思われる、日本人が唖然とするようなアグレッシブな女性が何人も居た」ので、先生はその点も含めて言ったのかもしれないという指摘も面白い。
おそらく、彼らは中国や中東から移民してきた女性たちかと推測されます。
そしておそらく、人種差別や、偏見や文化や言葉の壁にぶつかりながら、多文化社会で「違う」人たちと生きていくに当たっては、感情的にならずに自己主張すること、アグレッシブではなく「assetive」である知恵が大事なんだろうと思います。

英語の動詞はassert.名詞はassertion(断言、強い主張・・)ですが、『アサーション入門、自分も相手も大切にする自己表現法』(新書)だの『アサーション・トレーニング、さわやかな自己表現のために』なんていう本が日本でも出ているようです。

3.ところが、難しいのは、「assertive」という言葉自体はニュートラルで、状況や受け取り手によってプラスにもマイナスにもなりうる。
例えば、集団的自衛権について憲法解釈の変更を決めた安倍政権の閣議決定は欧米のメディアでも大きく報道されています。メディア(電子版)の報道は、
(1) 閣議決定の事実とそれが戦後最大の政策転換であること
(2) アメリカを初め友好国の政府は歓迎していること(わざわざ日本が自国を助けてくれるというのですから、反対する筈がありませんが)
(3) しかし国内での批判的意見も少なくない。抗議のため新宿駅で自らに火を付けようとした男まで居る(英米の新聞は、日本のメディア以上に、デモのニュースや写真と一緒に取り上げています。ここに載せたのはBBC英国放送協会のです)

(4) 中国・韓国は猛反発し、東アジアの緊張を一層高める懸念があること
等を、あまり意見を交えず、冷静に伝えています。

この報道でニューヨーク・タイムズ(NYT)が「assertive」という言葉を2回使っています。
最初は安倍内閣憲法解釈変更について。
「日本の首相は、7月1日、平和憲法の解釈変更を発表し、日本が60年ぶりに、緊張が一層高まっている東アジア地域において、軍事的に“assertive”な役割を果たすことが可能な方向に舵を切った」


次にNYTはこの文章の直後に、フィリッピン政府がこの日本政府判断を支持し、その理由として、それが「東アジアでより一層“assertive”な主張を強めている中国をけん制することになるから」と書き、日中双方についてこの言葉が使われます。
どちらも、「より一歩踏み込んだ自己主張」と中立的に使っているようです。


3. FBのコメントでは、木全さんから、「(日本でも)人出不足、人道上難民受け入れ等がほんとに起きる日が来るように思います」という指摘もありました。


とすれば、その日のためにも、私たち1人1人の「違い」に対処する姿勢がいっそう問われてくることでしょう。
たまたまNHK教育テレビクラシック音楽の番組を見ながら、そんなことを考えました。
音楽好きで自分も作曲までする友人が、サントリーホールでの6月3日の演奏会に行って感動したという感想とともにテレビ放送を教えてくれたので、ブルーレイに採って観賞したものです。
フィラデルフィア管弦楽団演奏で指揮はヤニック・ネゼ=セガン、カナダ・モントリオール生まれの38歳。いま注目されている若手の1人。
曲目は、モーツアルトの「41番ジュピター」とマーラーの「1番巨人」の2つ。
セガンはインタビューで、モーツアルトは「明快に指揮し」、マーラーは「誇張、かつそれぞれの演奏家の出番を意識する」と言っていました。夫々の演奏家の個性(自己主張=assertionでもあろう)と多様性を生かすのがマーラーの魅力である、と理解しました。

テレビの画面で見ていて気付いたのは以下のようなことです。

(1) セガンが実に楽しそうに指揮をしていること。

(2) オーケストラがとても和んでいたこと。演奏会場で聴いた友人によれば、開演前から着席している奏者も多かったが、チェロを弾く男性などは最前列の若い女性に弓を振ったりしていたそうです。
「演奏者が客席にコンタクトをとろうとするなどというのは日本のオケでは考えられないですね」と書いてくれました。
たしかに、テレビの画面でも、始まる前に演奏家同士が話合ったり笑ったりしていて、皆が真面目に座っている日本のオケとはだいぶ違いました。

(3)それと何といっても、アメリカのオーケストラを見て、いつも感じる、演奏家の多様性です。コンサート・マスターは韓国人だし、老若男女、国籍、人種、多種多様で、女性もアジア系も多いし黒人もいる、中にモヒカン刈りの若者も弦を弾いていました。

「多様性ということは音楽の本質とどうつながるのでしょうかね。あらゆるしがらみを取り払い、純粋に音楽的な視点でのみつながっていくということでしょうか」と友人が書いていますが、特にマーラー交響曲を演奏する場合なんか、ダイナミックな音楽づくりに効果的に働いているように思います。

日本の社会も、
「みんな、違うよね。だから違う意見を聞き、違う人と付き合うって面白いよね」という発想、
「多様性」ということをもう少し考えてもいいのではないでしょうか。