アマチュアは「明るく」プロは「超越を志向する」

1. 海太郎さん、池田さん有り難うございます。さっそく「アサーション」なる言動パターンに関心を持って本を購入したというのは、まさに「アサーティブ」な対応ですね。感心致しました。
他方で池田さんから「アサーティブ(断言的)」と「アグレッシブ(攻撃的)」との違いも勉強になりました。たしかに前者は「冷静に」「断固として」「しかし相手の立場も認めて」「結果としてのウィン・ウィンを狙う」ということであれば、ポジティブ(肯定的)な姿勢ということになりますね。
もっとも、ニュヨーク・タイムズが、中国の尖閣への領土権主張も、日本の憲法解釈の変更(改正の手続きを経ずに解釈で9条を形骸化する・・・)も、ともに「アサーティブ」を使うのは、個人的にはかなり疑問を持つ者ではあります。

2. 他方で、暑さの中を、あるプロの若い画家(芸大を優秀な成績で卒業した)の個展に家人と2人で行きましたが、こういう絵は「アサーティブ」なのだろうと思いながら観ました。
「甘酸っぱい情念」と題した独特の絵画ばかりです。
「断固たる主張」があるのはさすがにプロだと思います。素人の私に分かりやすい絵ではないが、「全ての作品が好き」と本人自身が言われたように、自らが創造したものに愛着と自信を持ち、自分の道を確固として歩いている、そんな印象を持ちました。居心地の良い自宅の居間に飾って家族や来客と一緒に眺めるのはちょっと難しい、むしろ美術館の一室でひとりで眺める、何かを感じながら・何かを考えながらひとりで部屋を出る・・・作者の「アサーション」を自分なりに受け止めながら。


3. また一方で、やはり暑さの中を日本橋三越まで行き、友人が会員で2点出品しているので「チャーチル会」の展覧会に行ってきました。
チャーチル会は、ネットの解説によると、「アマチュアの絵描き愛好者の親睦グループ」だそうです。
――1949年戦後復興のさなか、「絵でもはじめよう」と数人の文化人が、当時英国の首相チャーチルの「絵を描くことは他人に迷惑をかけず、全てを忘れることが出来る、もっとも良い趣味だ」という言葉から、彼の名を取ってスタートした。
創立会員は藤浦洸森雅之高峰秀子宇野重吉などの音楽家・女優・新劇俳優など。
現在は、友人の話では、「自分のようなビジネスマンOBが主体で文化人芸能人はいない」とのことですが、東京だけではなく全国に支部があり、会員は東京だけで40数人、全国で2千人強とのこと。

チャーチルが生まれたブレナム・パレスという英国オックスフォード近くの御殿に飾ってある彼の絵の複製が入り口で出迎えてくれて、会員の出品作の他、創立当初の写真などもあります。

プロとアマチュアの違いを痛感しましたが、友人の話では、先生から「とにかく明るく描け」と言われるそうで、楽しそうな雰囲気に溢れています。
海外での風景を題材にしたものも多く、友人の1点は「ノルマンディの風景」
もう1点は「上野の交番は朝から忙しい」という題名の絵です。
この交番は、上野公園が受け持ちで、迷子や落とし物の取扱い、道案内などが多く、「杜」をイメージした「デザイン交番」とのこと。
 
彼は最近、こういう変わった交番に興味を持って、絵の題材のシリーズにしているとこのこと。「京都にも面白いのがあったら、出掛けるから教えてよ」と言っていましたが、「デザイン交番」で「画像検索」するといろいろと出てきます。
やはりアマチュアは「明るく・楽しくだろうな」と思いました。

4. プロの場合は、音楽でも絵画でも文学でも、創作活動の根っこには「楽しみ」はあるでしょう。しかし、それだけではない、「超越を志向したい」やむにやまれぬ表現の意思と苦闘があるのだろうと思います。
この「超越を志向する」という言葉は少し分かりにくいですが、
渋澤龍彦が、三島由紀夫を偲ぶ文章の中で、「文学者」という言葉を「市民」と対峙して使い、前者は「超越を志向する者」であり、「市民」と敵対するものとして、われわれ全ての中にもある筈であり、お望みなら「革命家」という言葉に置き換えたって一向に差し支えない、と補足します。ここで「文学者」は「表現者」すべてを意味するでしょうし、「超越」とは「人間の罪悪を見据えたうえで、それを超えたイディアの世界」への願い、と言ってもよいかもしれません。


5. 文学の世界であれば、たまたま「文学界」という雑誌の7月号所収の「悲しみと無
のあいだ」という小説を読みながら、プロの作家の苦闘を感じました。
東京新聞の評で取り上げていたので図書館で借りて読みました。
作者の青来有一という人、初めて知り、初めて読みましたが、「せいらい」と読むそうで、「セーラームーン」から取った筆名だそうです。もっとも、セーラームーンなるものを知らない私には何のことだかわかりません。
長崎出身で長崎市役所に勤めながら小説を書き、芥川賞も受賞している。
父が長崎の原爆に被災し、そのことを度々題材に取り上げている。

本作もやはり父親を取り上げます。物語は、事実と彼の想像とが絡み合っています。
(1) 2009年9月80歳で父が死去。彼は10代半ばで長崎で被爆、「長々と生きてしまった」という思いを抱え、悲惨な体験について「ついにくわしく語ることがないまま逝き、ぽっかりと穿たれた空白をわたしのなかに残しました」
(2) 原爆について父は「いくらかは語りはしたのですが、「どげんもならん(どうにもならない)」が口癖であり、なげやりでさえあった。
(3) 「私」はそんな父の死去のあと、彼が決して語らなかった「昭和20年8月9日」の悲劇を自分なりに想像し、「あの日」を文章に構築しようとする。
(4)そのため、原爆に関する様々な記録や証言を読み、被爆の「実相」を調べ、さらにそれ以外の壮絶な小説や記録を漁る。

例えば、赤十字の父と言われるスイス人のアンリ・デュナンの書いた記録。1859年のフランスとオーストリーとの戦争で負傷した兵士が収容された場所のまことに悲惨な状況を冷徹に観察し、文章に語る。「・・・あまりの痛みから気が狂ったようになって、口ぐちに『殺してくれ』と絶叫する負傷兵たち」・・・などなど。
デュナンは最初は自費で出版したこの書物で、国際的な救護団体の設立をよびかけ、それが赤十字の創設につながったそうです。「なによりも戦闘により傷ついた兵士たちの惨状を目の当たりにして、自ら救護に走り回った経験をふまえた提案でした。彼はくりかえしくりかえし戦場や野戦病院の無残な兵士たちの姿を書き記しています」。
青来有一は長々とデュナンの描写を引用しますが、ここにその残酷さを書き写す勇気が私にはありません。
青来有一はデュナンと違って、自らは見ていない。しかし彼も「表現者」の「断固たる」姿勢で「あの日の」父の姿を想像し・創造しようとします。

現実は決して明るく・楽しいだけではない。
何とも醜い・悲惨な世界と人間の姿を直視し、それを表現すること・・・
小説の中で「私」は、こんな風に考えます。
「わたしの父は、もしかしたら人間に絶望していた―――、絶望などというおおげさなことではなく、世の中に、人間に、心底、うんざりしていたのではなかったのか、人間とこの世界に、どげんもならん、とうんざりしていて、悲しみと無のあいだでどちらかをえらぶとしたら、なにも感じない無をえらぶのではないか・・・・・わたしにはどうしても父は無をえらぶように思えてしかたがありません。」
しかし、この絶望の中からしか、「超越」と「未来」は生まれないのではないか、と作者は静かに・しかし断固として語りかけているように思います。