岩波ホールで「大いなる沈黙へ」を観る

1. 前回のプロとアマについての雑文にFB上のコメントを頂きまして有り難うございます。
プロかアマの区別は?と考えて、本職か?お金を貰うか否か?で区別するというのもややあいまいになりました。

例えばチャーチル会の会員の場合、今では現役を退職したもとビジネスマンが大半のようで「もと本職」はあったが今は絵を描くのが生きがい(本職?)と言う方も多いだろうし、展示された作品には価格の表示もありました(全員が同じお値段でした)。
やはり、抽象的になりますが「超越を志向する存在」がプロではないか?
ところで、宗教をプロとアマに区別するというのは、まことに不遜かつ失礼で、大いに怒られそうですが、
不信心な者がアマで信者がプロか?それとも、神父や牧師、お坊さんや神主がプロでそれ以外の信者はアマか?そうすると、修道士はどちらか?
まことに馬鹿げた・無礼な疑問かもしれませんが、先週、岩波ホールで「大いなる沈黙へ」という男子修道士の暮らしを映像にとらえたドキュメンタリーを観て、そんなことを考えました。


2. 岩波ホールでは昨年末に公開された映画「ハンナ・アーレント」も観ましたが、こんな硬い・地味な映画が大評判になって連日行列・満員だったことを昨年12月のブログに書きました。http://d.hatena.ne.jp/ksen/20131215

「大いなる沈黙」もフランスの修道院内を撮った地味な映画で、おまけに3時間弱という長さですが、これまた行列・満員で驚きました。途中休憩なしで、高齢者としてはトイレの要求がいちばん心配でしたが、事前準備(この暑さにも拘わらず水分を取らない・・)もあって、最後まで安泰。しかも途中で退屈することもなく見終えました。

それにしても、全国のクリスチャンは約22億人、うちカトリック14億。
他方で、日本のキリスト者はわずか100万以下、うちカトリックは45万人。
カトリック信者ならともかく、観客の大多数は私と同じく日本のアマチュアではないかと、この人気には驚きました。



3. ひとつは宣伝文句に惹かれたということがあるでしょう。以下長いですが、チラシの文句から。
――「静けさのなかに聴こえてくる、ふりそそぐ光の音、ふりしきる雪の音
グランド・シャルトルーズはフランスアルプス山脈に建つ伝統的な修道院
これまで内部が明かされたことはなかった。
1984年に撮影を申請、16年後に扉が開かれる。
差し出された条件は、音楽なし、ナレーションなし、照明なし、中には入れるのは監督1人のみ。
(そして監督は、半年弱、修道士と起居をともにして、撮影し)5年後完成した映画は大きな反響を巻きおこす」
そして

―――「内なる精神に意味を求める日々、この沈黙にみちた、深い瞑想のような映画には、進歩、発展、テクノロジーのもとで、道を見失った現代社会に対する痛烈な批判と、今日の物質文明を原点から見直そうとする想いが根底にある・・・・・」
こういう「詠い文句」はたしかに、宗教のアマチュアも引き付けるのでしょう。


4. 私もアマチュアの1人で、他の観客と同じく、興味本位で出掛けました。
ただ、多少の個人的な思い出がカトリックにはあります。
1つは、もう70年近い昔、四谷にある「雙葉」というカトリック系の女学校の付属幼稚園に通い、毎日シスターと呼ばれる修道服姿のフランス人・日本人双方の先生にお会いしたこと。
2つは、この女学校に姉が2人通っていて、従って私も朝一緒に連れられて、電車で通ったのだが、上の姉が、同じく四谷にある聖イグナチオ教会で洗礼を受け、その後、一時期、修道院に入ったことがあること。
の2点です。
実は、岩波ホールのプログラムには映画の評や解説が、カトリック作家として著名な加賀乙彦さんなど載っていますが、中に私の実弟三郎も書いていて(彼はプロの文人です)姉の修道院にも触れています。


ところで、この映画でも「誓願」といって、2人の若い修道士が仲間入りする場面が映像化されています。

そこで院長が2人に向かって
「いつでも修道院を出る自由があること。他方で仲間の方からも、いつでも“ふさわしくない”と判断して追い出す権利を持っていること」を伝える場面があります。
規律は極めて厳格、個人の自由は束縛され、暮らしは極めて質素で日常の所持品も最低限、宗教に関する以外の知識も情報も書物も無い、
しかし、他方で加賀乙彦さんの
「一人一部屋という住居は大勢が大部屋に寝室をとる修道院にくらべれば、随分贅沢だと思う」と「やめるのは自由とは、不思議な決まりである」いうコメントにもたいへん興味を待ちました。
姉の場合も、数年修道院で過ごし、その後、出て、終生、真面目な教徒として過ごしつつ、しかし結婚もし、お茶のお師匠格になったりしてそれなりに日々を楽しんで他界しました。

5. 私自身は幼稚園の教育にも拘わらずいまだにアマチュアの1人ですが、カトリックには親近感はないではなく、グレゴリアン聖歌が好きで寝る前にほぼ毎日のようにCD を聴いており、「あ、またお経の時間ね」と家人に言われています。
映画を観てどう思ったか、私自身の感想を書く紙数はなくなりました。
他の観客、同じくアマチュアがどう思ったかにも大いに興味があります。
チラシのうたい文句、とくに「道を見失った現代社会に対する痛烈な批判と、今日の物質文明を原点から見直そうとする想いが根底にある」という文章はどうでしょうか?
私には分かりません。宗教はおそらく、こんな安直な言葉で言い表す以上の「超越を志向する」何かではないか・・・・
果たして、修道院という場所で、あらゆる自由を束縛されて生きる「生」が「プロの生」なのか?こういう風に暮らし、祈ることが、神にいちばん近い・神に愛される「道」なのか?

フランス革命後の「啓蒙の時代」を生き「啓蒙の申し子」とも言えるヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を思い起こします。
レ・ミゼラブル」は物語の展開の途中に挟みこまれる著者の記録と省察が実に面白く、ワーテルローの戦い、パリの地下水道等々について長々とうんちくを垂れます。
その中で、ジャン・バルジャンコレットがパリの修道院に逃げ隠れる物語とともに、修道院についても延々と語ります。
「人間はパンで生きる以上に、肯定で生きるのである。
(略)
修道院という、誤謬(ごびゅう)でありながらも無垢の、迷妄でありながらも善意の、無知でありながらも献身の、責め苦でありながらも殉教の場所について話すときには、ほとんどいつも肯定する同時に否定しなければならない・・・・」
(西永良成訳ちくま文庫第2巻)
まさに「啓蒙の申し子」であるユーゴーのこんな言葉を読み返しながら、引きつづき考えています。