まだプロとアマチュアをめぐる雑念と「役割」

1. arz2beeさん我善坊さんコメントまことに有り難うございます。お陰さまで勉強になります。
せっかく頂いた丁寧なコメントですので私としてはしつこく考えてみたいです。
こんなことを考えるのは無意味だと言われそうですが、昨今の世の中を見ていて感じることがいろいろあります。例えば、


(1) 政治や戦争にプロが要るのか?こういうプロが世の中を悪くしているのではないか?
(2) 逆にスポーツの世界を見ていて(「プロスポーツ」と言う言葉が矛盾しているという指摘は面白いですね)、アマチュアリズムとは何か?それは死んだのか?
(3)他方で、世の中、インターネットの存在でソーシャル・メディアの可能性がどんどん膨らんでいく、そうなると私のようなど素人がもったいぶってブログを書いたりする、政治的な発言も右と左を問わず自信を持って発言する人もいる・・・
そういう風潮はむしろアマチュアの隆盛を感じる。これは果たしていいことなのだろうか?

マチュアはご指摘の通り、「生業」ではないし、「プロフェッション」が「学識を要する」とすれば、プロほどの「学識」もないだろう。とすれば、アマチュアの意見や行動はどうしても、学識にも欠け、生業でもないから無責任にもなるだろう・・・それでいいのだろうか?


(4)しかし他方で、「市民社会」や「市民参加」が最高のプラスイメージで語られる現代であり、この場合の「市民」とは「究極のアマチュア」のことではないのか?

(5)そして「市民」もまた普通は何らかの「生業」を持っていることが多いだろう。それは専業主婦のように「収入を得る」生業ではないかもしれない。しかし家人の場合を見ていても、長年「家事のプロだなあ」と感心することしきりである。


(6)そうなると、人は、ある場合は、「生業にたずさわるプロ」ある場合は「市民」ある時は、趣味で絵を描いたり歌を歌ったりという「アマチュア」といういろんな顔を持っているのだろう。しかしまた、私のような引退した高齢者の場合、もう「生業」は持っていない。
他方で、引退した高齢者であっても、日々ネットの株取引にかじりついて儲けている(時には損もする)人もいるだろう。彼らは「プロ」か「アマ」か、そんなことはどうでもいいか?
「毎日株をいじっていたって、俺はアマチュアだよ」と言う人は、私と同じく、「生業」を終えているのだろう。それでも「俺は市民だ」とえらそうに意見をぶつ資格があるだろうか?
そういう人に限って(暇なせいもあって)いろいろと意見や情報を流す機会が多い、というのが昨今の風潮のようではあるが・・・
それを「市民参加」と評して評価する文化もあるようだ・・・
それでよいのか?

(7) そこで、arz2beeさんの言われる「役割」という言葉が大事な意味をもってくるようだ。
人は様々な「役割」を持っている・・・



2. 村田沙耶香さんという若い小説家が居ます。私は読んだことはありませんが、いい小説を幾つも書いているようで、2013年には三島由紀夫賞も受賞したそうです。
なぜ彼女に興味を持ったかというと、最近の東京新聞で、新しい作品が出たのを機にインタビュー記事が載りました。
知らない作家なのでざっと読んだだけですが、そこで、彼女が学生時代に始めたコンビニでのアルバイトをいまも週3日続けているという紹介がありました。
「朝2時に起きて自宅で小説を書いて8時から午後1時までコンビニでアルバイトをして、それから仕事部屋で仕事をします」とあり、ネットで「村田沙耶香コンビニ」で検索すると情報も出てきて、それなりに話題になっているようです。
彼女の場合、純文学の小説だけでは収入が限られるから、アルバイトを続けているのか、それとも実社会とつながる体験が小説を書く上でも大事だと思っているのか、その両方か、よく分かりませんが、ちょっと面白いと思った次第です。
この両方を「プロ」として生きているのか、それとも「役割」を果たすという意識に徹しているのか本人に訊いてみたい気もします。
コンビニの「アルバイト」で収入は貰っている、しかし「生業」という意識はあるだろうか、とも思います。ご指摘のように「技術や技能のレベルが違う」「学識を要する」というほどの仕事ではないかもしれない、といって「アマチュア」でもないでしょうね。


3. さらに馬鹿馬鹿しい雑念を続けますが、牧師やお坊さんは「生業と言うよりは役割ではないか。法王は組織のプロかもしれないが」という指摘もたいへん面白いです。
「役割」というと、前述したように、「市民としての」「プロとしての」「父親としての」「趣味人としての」・・・と多様な存在というイメージが生まれるように思います。

他方で映画「大いなる沈黙へ」で紹介されるグランド・シャートルーズで過ごす修道士の場合、全てを神に捧げる日々ですから、1つに徹底した「役割」なのだろうか。
例えば、彼らにとって「市民」の役割はどうなっているのだろうか?
彼らだって当然に選挙権はある筈である。
投票にあたっては、例えば「集団的自衛権憲法解釈変更を決めた現政権を支持するか否か?」について意見をもつ必要があるだろう。
しかし、彼らは終日、神と神のしもべである仲間とだけ暮らす日々であって、テレビも新聞もネットでの発言や情報を目にする機会は全くない。
そういう状況で、政治問題や社会問題について何らかの意見をもつということが可能だろうか?
そういう浮世のことは自分たちの関心にはないと、選挙は棄権するという選択をするのだろうか?
「市民」とはどういう存在を言うのだろうか?
昔であれば、私たちは、この修道士のように、そんなにたくさんの「役割」を持っていなかったのではないか。町人であったり農民であったり、その他はせいぜい家庭を守るぐらいの「役割」しかない、それが人間というものだっただろう。


4. というようなことを暇に任せて考えていると、前にこのブログでもたびたび紹介したカズオ・イシグロの『日の名残り』という小説を思い起こします。
もちろん20世紀半ばのお話ですが、英国貴族のお屋敷の執事を勤めるスティーブンスは、まさに「プロ中のプロ」という意識を強く持っている。それだけに、それ以外のことには意見を言わないことを信条としている。ご主人からいまの政治向き(第2次大戦の危機が迫っている、大陸ではヒトラーが台頭している、英国はどうすべきか?)について訊かれても「私には意見はありません」と答える。
しかし、彼が戦後になって、旅をして小さな村に泊まって、村の人たちとパブで会話する。そこで「昔は熱心な社会主義者だった」というお医者さんや「ヒトラーと戦ったことで英国人は自由な市民でいる権利を守ったんだ」という若い世代の発言を聞いて、世の中変わったなと痛感します。英国の保守主義と階級制度に長年慣れ親しんだスティーブンスは「誰もが国家の大問題について強い意見をもち発言するべきだと主張するのは賢明とは思えない」と反論する・・・・・

私は、反論するスティーブンスを支持するつもりは毛頭ありません。
むしろ「市民」を育てることが急務ではないか。
しかもそれは、ただネットを駆使し情報を流したがる人たち(私もそうですが)が増えることではなく、「最高のアマチュア」が増えることではないか。
プロに負けない「学識」をもち、同時に「幾つになっても“自分が”生業と思う(我善坊さんのいう)“ベルーフ”を守り(もちろん専業主婦だって立派な生業)」、そして「市民としての役割」を果たす、そういう人たちが育っていく社会を夢見ています。