蓼科高原の夜と「Let there be night(夜よあれ)」

1. 今年の夏は異常気象、天候不順だとは連日のように言われます。当地蓼科の夏も日照時間が少なく、野菜作りの農家は悩みが多いことでしょう。
野菜価格が高騰しているようで、10日ほど前、友人が2人、当地を訪れて2泊しましたが、「安い・安い」と喜んで直販の野菜を大量に買って帰京しました。それでも例年より豊富には無かったようです。

8月から9月初めにかけて晴れた日は少ないですが、それでも夏休みに訪れた友人や身内とあちこち短い旅をしました(奈良井宿安曇野だの・・・)。
遠くに住む身内からは遅めの夏休みを取って、スイス・マッターホルンに行ったという便りがありました。
写真やビデオがたくさん送られましたが、そのうちの1つの写真には驚きました。

後景にマッターホルンがくっきり見える、ゴルナーグラートの中腹の写真でしょうが、何と前景に「カレー」という日本語の看板が写っています。
山の姿は、25年前に観たのと少しも変わりませんが、人工の姿は変わるものです。


2. 当方老夫婦の夏は、来客がある時は、上述したようにあちこち日帰りで出掛けます。
彼らが帰ってしまうと静かな田舎暮らしに戻って、時に買い物や図書館に行くのに街まで下りるぐらいで、あとは標高1300メートルの高地で過ごします。
人も徐々に少なくなって、とくに夜になると、まことに静かで物音は全くせず。
おまけに月夜であれば多少の明るさはありますが、今年の夏は曇りの日が多く、夜になると、家の周りは、外灯がところどころ灯っていますがあとはほぼ真の闇となります。

最近は、普段都会で暮らしていると、夜の闇を感じることが少ないのではないっでしょうか。
夜、真っ暗な中を歩くのは決して気持ち良いものではありません。特に私は、闇の中を一人で車を運転する(都会では考えられないでしょうが、当地では場所によっては、夜は真っ暗な道での運転なります)のが大の苦手で、絶対にやりません。車が無いと「陸に上がった河童」になってしまって運転が不可欠な山の暮らしですが、それでも夜の運転はもっぱら家人任せ。家人は幸いに「一人で闇を歩くのは嫌だけど、車の運転はまったく怖くない」そうです。
「想像力に欠けてるんじゃないの」と負け惜しみを言うのですが、恥ずかしながら一人で真っ暗な中を運転して、バック・ミラーを見るのが怖いのです。
ミラーを見る、すると、長い髪をたらし、青白い顔をしたすこぶる付きの美女がミラーに後部座席に座っているのが見えて、薄笑いを浮かべて「こんばんわ!」と囁く・・・そんな状況を想像して、どうにも運転できなくなります。
夜でも闇でも、強盗だの怪しい人間だの動物だのにはさほど恐怖を感じませんが、妖怪変化のたぐいは、信じているかと言われるとよく分かりませんが、それでも世の中にそういう摩訶不思議が存在するかもしれない、という思いは捨てきれません。


3. ということで、夜と闇は苦手なのですが、誰か人間がいれば安心なので、例えば夕食後、家人は家に居て、部屋の明かりが見えて、しかし家の周りは暗い闇、という中を一人で暫く食後の散歩をするなんてことはよくやっており、そんな時は、都会ではまったく経験しない、「真の闇」の中に身を置くことがあります。

なんで、こんなことを書いてきたかというと、少し前ですが、4月28日の「タイム誌」に「夜よあれ(Let there be night)」と題して、夜の真の闇は人間にとってとても大事」だという記事を読んだからです。文章は

「闇(darkness)」はしばしば、「悪」と結びつけてイメージされることが多い。
しかし、バーバラ・ブラウン・テイラーは、闇が私たちの救いのために必要だと信じている」という出だしで始まります。

(1) たしかに、英和辞典で「darkness」を引くと、「暗黒」「暗闇」といった訳語とともに「暗愚」「無知」「腹黒さ」「邪悪」といった負のイメージが並んでいます。「The prince of darkness」は「魔王」だそうです。
広辞苑で「暗黒」を引くと、最初に「くらいこと、くらやみ」次に、「世の中の秩序が乱れたり道義がすたれたりしているさま」と出てきます。

(2) 旧約聖書の創世記は以下の言葉から始まります
「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり・・・・・
神は言われた。「光あれ(Let there be light)」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた・・・・」
以来キリスト教の信徒にとってのメッセージは「暗闇の中では(神)は存在しない」であった。
(3) しかしテイラー女史はこういう理解に挑戦し、光りとともに「闇」が人間にとってきわめて大事であり、必要であること。
現代人は、あまりに明るさに囲まれすぎており、暗さを避け・拒否する性向がある。
しかし、暗闇を避けるのではなく、それと向きあうことで、人は、癒され、省察が深まり、神を身近に感じさえする。私たちの救いは闇にこそある・・・
と主張する。
そして、昔、仏陀北インドで、聖フランシスがアシジで、ともに洞くつの中で瞑想にふけったことを指摘する。

(4) テイラー女史はアメリカで代表的な神学者であり、エール大学の神学大学院を卒業。某大学神学部の教授であり、牧師・説教師でもある。「アメリカでもっともすぐれた説教家12人の1人」に唯一の女性として選ばれたこともある。
(5) 彼女が「闇と向きあうために」すすめるのは
・暗闇のなかを歩く
・夕闇に座って、月や星が出るのを待つ
・寝る時に、あらゆる発行源を消す
・古代人が洞くつの中で過ごしたように、暗い部屋でひとときの時間を過ごす
というものです。


4. 大都会に住んでいると、闇の中を歩くなんて不可能でしょう。そもそも危険で物騒で、と言われそうです。
しかし田舎に居ると、いまでも夜になれば真の闇は珍しくありません。
そこで、テイラー女史が勧めるように、時に闇の中を歩いたり、その前に、畑に囲まれた、喧騒や騒音とは無縁な、人の居ない静かな丘に座って、山の端に日が沈み・徐々に夕闇に包まれ、月が上ってくるのを眺めたりします。

もちろん田舎家に帰れば家人が居て、明りが灯っているからこそ安心して闇と向き合うことも出来るのですが、それでも私のような無信心の・省察や瞑想など苦手な俗人でも、何か静かな落ち着いた気持ちにはなるように思います。