中津で考えたこと−福澤諭吉を探して

1. 前回に続いて中津へ、福澤諭吉を辿る旅の記録です。
歴史資料博物館で教えてもらったのですが、
「このあたり、古墳時代から“豊の国”と呼ばれ、そこから豊前(ぶぜん)豊後(ぶんご)という名前も生まれた」
「大分という名前はもとは“多い田”がつまったもの」
だそうです。

つまり、このあたり、お米が多く取れる豊かな土地柄だったのでしょう。
中津は、いまはお寺の多い静かな通りが多く、駅前も空き地やシャッターを下している店も多く、歩く人の姿もほとんど見かけません。
福澤諭吉の時代も静かな城下町だったのでしょうが、江戸時代末期、なかなか学問が盛だったようです。瀬戸内に向かって海に開かれており、かつ長崎に近いこともあり、
漢学から、蘭学へと拡がり、歴代奥平藩の藩主は学問奨励に熱心だった。
例えば、諭吉の時代には隠居していた前の藩主昌高は、藩校を作り、国学・漢学と同時に蘭学を学ばせた。出島の商館長(カピタン)と親交を結び(そのために早く家督を息子に譲った)、オランダ名までもらった。彼との会話も不自由にせず、詩のやりとりまでした。
藩医であった前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした」(ウィペディア)。

2. 昔日本史の授業で習った、杉田玄白とともに、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を「解体新書」と訳して出版した前野良沢が中津の人だとは知りませんでしたが、この翻訳作業は江戸の中津藩中屋敷で行われたそうです(1771〜74年のこと)

蘭学が西洋医学を学ぶ目的とも深く結びついて進められたことがよく分かります。
中津はその点で大きな役割を果たした訳で、当時の医家がいまも残っていて、訪れると膨大な資料が展示されています。


興味深いと思ったのは、以下のような点です。
(1) 江戸時代後半には、幕府の中央集権のコントロールも衰え、各藩(当時68カ国)が独自の文化・学問を育てる土壌が出来上がっていた。
(2)その中で中津のように、経済的に比較的豊かで、海に開けて、しかも長崎・出島に近いという利点をもち、開明的な藩主を持ったところでは、その地方独自の教育や文化の育成に意を用い、発展させた。


この時代、各藩がそれぞれ独自の、自主性と多様性を持った文化・教育を持っていたというのはなかなか魅力的です。
もちろん明治日本は西欧列強と対抗するために、統一国家を作らざるを得なかった。
しかし、そのために失ったものもあるのではないか。
今に至るも、「道徳」を教科にしろ(つまり「点」をつける)とか、「君が代」を式で歌え、とか文部省が命令すれば、日本中の公立の学校がそれに従わざるを得ない・・・
そういう社会とは違って、教育の自主性と自由がかって日本にもあったんだ、と想像してみることはちょっと楽しいですね。


3. もう1つ、例えば中津でこの時期、あれほど熱心に蘭学を学び、知識を吸収した背景としては、工学や軍事学や医学について西欧の科学技術文明を吸収したいという強い目的があった訳ですが、

彼らが(中津藩主奥平昌高のような人を含めて)なぜ苦労しながら異国の言葉を学ぼうとし、かつ学ぶことが出来たか?
という点について、これは仮説ですが、日本人の(少なくとも武士階級と知識人は)幼い時から漢学を学んできたという伝統があったからではないか、という思いを強くしました。漢学から蘭学へ、という流れを無視できないのではないか。

蘭学を学んだ前野良沢他多くの医者が、藩医であると同時に、もとは漢方医だった。

福澤諭吉も19歳で学ぶために、長崎に出ますが(1年後に大阪の適塾に、その後江戸に)その前、中津の白石照山の私塾で漢学を学んでいます。
それは本人が認める以上に大きな意味を持ったのではないか。
漢学という「(東)洋学」を学んでいたからこそ、「(西)洋学」にも真面目に取り組むことが出来たのではないか。
両方とも「読み・書く異国の学問」として受容された訳です。
もちろん、漢字とアルファべットの違いは大きいにせよ、
日本語ではない国の言葉の「読み・書き」を学ぶという努力においては、同じと言ってよいのではないか。
漢学を学ぶという伝統と素養があったら、蘭学にも取り組むことが出来た。


4.そして何故そんなことを考えたか?というと、
現代の日本人はもちろん、漢学を学ぶという伝統を失った。
そういう日本人が、英語教育の必要を言われ、公立の小学校でも英語の教科化が叫ばれる時代において異国の言葉を学ぶとはどうあるべきか、と考えるからです。
いまの英語教育は「グローバル化の時代に、違う国とのコミュニケーションや交流は不可欠」という発想で、ヒアリングや会話する力を重視する方向ではないでしょうか。
それが悪いとは言いませんが、
日本人にはかって漢学や蘭学を「学問」として学ぶ歴史があった、それは何と言っても「読み・書き」ではないかと思います。
江戸末期最大の漢詩人と言われた頼山陽は、司馬遷の「史記」を模範にして「日本外史」22巻を漢文で著述しました。その彼はおそらく当時の中国人と会話することは出来なかったのではないか。
「コミュニケ―ション」のためではなく、「読み・書き」を通して異国の思想や文化を受容するために外国語を学ぶという学問も大事ではないのか、と考えました。

4. 最後に感じたのは、中津が福澤諭吉を生んだという面も無視できないのではないかということです。これが今回、中津に実際に出掛けた大きな収穫だったと思います。

福澤は「独立自尊の戦いに一生を賭けた、幕末から明治初期にかけての最大の啓蒙思想家」(丸山真男)とも「近代日本最大の精神的指導者」(北岡伸一)とも評されます。
それはそうだろうと思いますし、福澤諭吉自身の才能や努力や志や強靭な意志や行動力を否定するつもりは毛頭ありません。
しかし、中津の土壌が彼を育てたということもあるだろう。
彼が「藩閥制度は親の敵でござる」と言い、封建的な儒学を徹底的に批判したことはよく知られています。
もちろん、彼の言う通りでしょう。

しかし、武士階級の中にも奥平昌高のような人物が居た。
彼らのようないわば「知的エリート」が、中央政府なんか気にせず藩自らの判断で学校を開き、独自の教育を考え、人材を育て、洋学と医学を奨励し、辞書までつくり、「学ぶ」という文化を広めていった、
日本にはかってそういう社会があり、そこから福澤(だけでなく)のような人物が育っていった。
いまの、画一的なこの国の「教育」(だけでなく)を思うにつけ、
そういう、「多様性と自由のある・活気のある徳川時代末期」というイメージを思い浮かべた次第です。