中津と日田を比較して考える―漱石も昔日田を通った

1. 柳居子さん、島津斉彬中浜万次郎から外国事情を克明に尋ねたという事実、面白いです。そう言えば、前回紹介した、出島の商館長からオランダ名を貰ったという奥平昌高は薩摩の島津からの養子です。


福澤の言うように「門閥制度は親の敵」ではあったでしょうが、同時に当時の上層武士の中には一級の知識人もいたという側面も抑えておく必要があると思います。


2. もう1つ面白いと思うのが、中津から耶馬渓を経て山を越えて訪れた日田の町です。
山間の僻地のようなところですが、実は江戸時代、交通の要衝で栄えました。
(1) ここはもともと、秀吉が豊臣天領としたところ。「徳川幕府も17万石を有する直轄地として、九州経営の拠点として、また九州諸藩ににらみを利かす要所として重要な地位を占めた」


(2)水郷の町と言われるように川が多く、水運に恵まれ、「日田の商人は物産を集め、中津から船で上方へ運び、戻り荷に綿などを積んで帰り販売する」。
かたわら「御用達・掛屋」業務にも従事し、諸藩への貸付にも拘わり、「日田金」と呼ばれ、これにより日田は全国でも屈指の経済的繁栄を見ることが出来た。


3.つまり、中津が城下町でサムライの文化とすれば、日田は経済の町で町人の文化だった。狭い日本の小さな一角に、対照的な2つの文化が育っていた訳です。
日田では豊かな商人が商売のかたわら、俳句を詠んだり茶会を開いたり能狂言を観賞したり「風流人」としてのライフスタイルを楽しんでいた。
例えば前々回紹介した、「私塾」を開いて当時著名な漢学者兼教育者だった広瀬淡窓(1782~1856)の生家は豪商の1人だった。
しかし彼の伯父は俳諧を好み、34歳で家督を弟に譲り、風雅の道に入り俳諧三昧の生活を送った。
甥の淡窓は2^6歳のころ、この伯父の家に預けられたそうですが、やはり家督を弟に譲りました。
譲られた弟の方は商売だけでなく、広大な新田を開発したり、対馬・福岡の諸藩の財政改革に貢献したり、「商人でありながら義を行う生涯に徹した」と評されます。
他方で、淡窓の方は、伯父のように風雅の道に進むのではなく、学問を選び、漢学を教える道を選びます。
彼が開いた私塾は死後も受け継がれ明治30年まで続きます。
「学歴・年齢・身分を問わず、誰でも入門させ、すべての門下生を平等に教育した・・・教育法もユニークだった」そうです。従って評判を呼び、インターネットも無い時代、全国から集まり、江戸でも京都でもなく、この時代最大の私塾が中央から遠く離れた豊後日田の・この「咸宣園(かんぎえん)」だったといいます。
学生だけでなく、頼山陽(1818年)や田能村竹田(1825年)など当時の知識人が淡窓に会いに日田を訪れました。

いま、日田では、水戸市弘道館)や足利市足利学校)と連携して、「近世日本の教育遺産群」という主題で、世界遺産登録を目指した取り組みも進められているそうです。


中津の武士文化は、漢学から蘭学(医学を含む)へ拡がり、
日田は風雅をたしなむ商人や、漢詩を作り・漢学を学び・それを教える学者も育つ。
江戸時代末期、2つの魅力ある地方文化の在りようを、この目で見るよい機会を得ました。

4.
中津という土地で蘭学が盛んだったのは、もちろん長崎に近かったということも大きいでしょう。
福澤諭吉も、19歳の1854年安政元年)2月、蘭学を学ぶため長崎に出ます。
どういうルートを通って長崎に行ったか?が旅をしながら、ゼミ生と先生との間で話題になりました。福澤自身は「福翁自伝」にも書いていません。

やはり耶馬渓から峠を越えて日田に入り、久留米あたりから船で長崎に行ったというのが普通のルートではないかという気がします。
日田までは歩きですから、冬の雪道はたいへんだったでしょう。
しかし日田まで辿りつけば、「水郷の里」ですから、筑後川を船で下るというのは楽でもあり時間も節約できます。
中津から九州の東を小倉・博多・・と回ってというルートもあったでしょうが、道中ずっと歩いて時間もかかりそうです。
もっともゼミ生の中には、小倉・博多ルートではなかったかと考える人もいて、もちろんどちらが事実かは、記録がないので分かりません。


5.福澤から45年後の1899年(明治32年)に夏目漱石が熊本から大分県宇佐神宮を詣でて熊本まで帰ったときのルートは分かっています。
五高の教授(英文学)として熊本に赴任していた漱石は、友人と2人、宇佐神宮の初詣を兼ねて元旦に出発し、行きは汽車で小倉を回り、宇佐から歩きと馬で峠を越えて、途中、耶馬渓羅漢寺を経て日田に入ります。
(中津から耶馬渓に行く鉄道が開通したのは1914年。それまでは「歩き」が普通でした)

漱石は、旅の記録は残していませんが、あちこちで句を詠んでいます。
例えば、
「(途中)口の林というところに宿りて」と題して
―――短くて毛布つぎ足すふとんかな ――
あるいは ――泊まり合す旅商人の寒がるよ ――


「(耶馬)渓幾曲いよいよ入ればいよいよ深し」と題して
――木枯らしのまがりくねって響きけり ――


その後、
「峠を越えて豊後日田に下る」と題して
――払えども払えどもわが袖の雪――
――吹きまくる雪の下なり日田の町――
そして「日田にて五岳を思い」として ――詩僧死してただ木枯らしの里なりき(注:平野五岳は広瀬淡窓の私塾で学び、詩書画にすぐれた日田の僧)

さらには「筑後川の上流を下る」として幾つも句を詠んでいます。


6. 福澤と漱石の間には40年以上の時が流れていますが、2人は冬の最中、同じように、歩き・時には馬に乗って日田に着き、そこから船に乗ったのではないか、
また江戸末期から明治にかけて、淡窓の私塾に入門するために日田を訪れた多くの若者も同じように、歩いて峠を越えて行ったことだろう・・・・
インターネットも高速道路も無い時代に、学ぶために遠くを旅した若者のことを思いました。