日田で見た「特攻イチョウの木」と旅を終えての選挙当日に

1. 海太郎さん、KAZの随想録さん、有難うございます。日田に滞在された思い出や大分出身の発言も嬉しく拝読しました。松本清張の著作は知りませんでした。読んでみたいと思います。書いておられる「心優しい」人たちという印象は実際に町を歩いてみるとよく分かるような気がします。町歩きの途次、犬を連れて散歩する人へのお願い書きが「日田弁」で貼ってありましたが、柔らかい物言いでした。

「豊の国」と言われただけあって肥沃な土地だったこともあるのでしょう。それと中津も日田も太平洋戦争時の戦災に遭わなかったのも幸運で江戸時代の面影が今も残っているような雰囲気です。
もっとも、「水郷の町」と呼ばれて、水の豊富な、それだけに物流で栄えた日田の町はこの夏に2度も大水に遭って、川水が溢れて大きな被害だったようです。訪れた時もまだ護岸の工事をやっていました。
2. それと海太郎さんの書いておられる「小鹿田焼(おんたやき)」で思い出しましたが、私たちゼミ旅行の仲間にも焼き物に詳しい人が居て、「窯」に寄る時間は無かったのですが、旅のほぼ最後の行程に専門店に寄りました。
私は買い物には興味が無い方で、仲間が店の人と焼き物の話で盛り上がっている間に外に出て、ちょうど斜め向かいによく紅葉した銀杏の木があるのでこれを眺めました。

近くに寄ってみると「特攻イチョウの木」と題する碑がたっています。こんな説明でした。
「太平洋戦争の中、日田地方にも空襲の恐れありと、数カ所に監視哨(物見やぐら)が設置された。このイチョウの木もその1つで、先端を切り簡便な小屋をつくって監視哨とした。
戦況日増しに厳しくなったある日、太刀洗(たちあらい)飛行場から鹿児島の特攻基地である知覧(ちらん)に移動の際、日田出身の特攻隊員である彼は、郷里のこのイチョウの木を目印に当時民間では入手できにくかった明治・森永キャラメルや洋菓子類が一杯詰まった袋を上空機より投下。
何度も旋回し、永久(とわ)の別れを告げて南の空へと旅立っていった・・・・・・」
平和な、山に囲まれた水の豊かな日田の町にも戦争の傷跡は残っているのだ、と思いながら、碑を読みました。ちょうど、他の仲間が小鹿田焼(おんたやき)の買い物を終えて店を出てくるのと合流し、ジャンボタクシーに乗って、大分空港に向かいました。

途中で時間があったので日田市にある高槻愛宕地蔵尊にも寄り道。いまパワースポットとして人気の高い場所だそうで、樹齢1300年というイチョウの木があり、ここがパワースポットだそうです。
説明に「奈良時代行基が開山したといわれている由緒ある地蔵尊です。願い事なら何でも叶えてくれるという諸願成就の神として広く信仰を集め、自分の年の数だけ願いごとを書いて奉納すれば、より霊験あらたかです 」とあります。
お抱え地蔵というのが祀ってあって、このお地蔵さんを抱えてからお願いごとをするとご利益(ごりやく)があると。
「母の右ひじと足のむくみが良くなりますように」と同じ言葉を何行も書いた紙が貼ってあり、80回以上あって、おそらく母親の年の数だけ書いたのかあと思いながら眺めました。


3.旅から帰ってもう3週間になりますが、いい経験をしました。大分でイチョウの紅葉がちょうど見ごろでした。いま、東京ではもそろそも終わりますが、近くの大学キャンパスのイチョウが見事でメタセコイアもすっかり色づきました。

日田にあったという江戸時代末期に最も多くの塾生を抱え、全国から集まったという広瀬淡窓の私塾について、フェイスブックでもコメントを頂きました。
「然るべき情報は、然るべき人に、今以上にしっかり届いていた様な感じがします。今は情報の取捨選択に時間を取られているように感じます」
あるいは「情報はIT技術でなく人間の情報入手意欲の強さにより流れるものなのですね」
お2人のコメント、全くその通りだなと感じたものです。
PCやスマホを叩けば、全ての情報が手に入る時代に、
本当に自分が欲しい情報や知とは何か?そういう知を手に入れるにはそれなりの努力をしなくてはならないのではないか。
そしてその努力とは何だろうか、と考えます。広瀬淡窓や福澤諭吉の時代であれば、まさに漢学や蘭学を必死になって学ぶことが、自らの「知」を鍛える道だったのでしょう。


本日は総選挙の投票日。
ニューヨーク・タイムズの電子版を開けると、筑波大の先生というアメリカ人が寄稿しています。
「なぜ日本の選挙民は、選挙への関心が低いのか」と問い、
全てを「文化・国民性」のせいにすることは出来ない。しかし日本人には、現状を「シカタガナイ(it can’t be helped)」と肯定する傾向があると指摘しています。リスクを避け、物事をそのまま受け入れるという「文化」が根強い。そうであるべきではない時であっても、それを認めることに憶病である・・・・と分析しています。
どこまで当たっているか、議論の余地はあるでしょうが、
少なくとも、幕末に福澤諭吉のような人間が必死に西洋の「文明」を学ぼうとした切実感がいまの日本にあるのかな、もういちど「ペリーの来航」が必要なのかなとまで考えてしまいます。
もっとも一部の人たちは、すでに「ヘイトスピーチ」なんかで騒いでいるように当時の「攘夷論」のような勇ましい意見を振りかざすことになるかもしれません。