タイム誌が伝える錦織圭選手:「ケイの道程(The way of Kei)」


1. 今週は「イスラム国」が日本人2人を拘束し、期限を切って殺害を予告、という悲惨な事件に衝撃を受けた方も多かったでしょう。しかも1人はすでに殺害されたようだと報道されています。
コメントをする立場ではもちろんありませんが、23日、ジャーナリスト後藤健二さんの母上と言う方が、日本外国特派員協会で緊急記者会見をしました。質疑応答を入れて1時間半の模様をYoutubeで見ることが出来ました。
日本人女性の通訳の出来栄えにも感心しましたが、記者たちの質問も多く出ました。
幾つか印象に残ったことがありますが、まずは、「日本外国特派員協会」が急きょ主催したという素早い行動力です。東京新聞によれば、母上の方から人を介して「世界に向けてメッセージを発信したい」と申し入れたとのことです。
次に「この時点で日本政府から何らかのコンタクトがあったか?」との質問に「何もありません」と回答したこと。
そして「なぜ出席するのか。やめろ」という意見が知人や親せきからあり、出る朝まで電話がかかってきたが、自らの判断で決めた、という発言・・・です。
周りの意見や圧力があっても、「自分で自分の行動を判断する」、そういう日本人が少しずつ増えてきたのかなと感じました。


そこで思い出したのがテニスの錦織圭選手についての海外の報道で、今回ご紹介することにしました。

2. タイム誌のアジア版1月8日号の表紙は錦織圭選手で、全豪オープンを前にして「ケイの道程」と題して、ハンナ・ビーチというよく知られた、同誌の東アジア支局長が特集記事を書いています。
言いたいことは実は、昨年9月に圭選手が4大大会の1つUSオープンの決勝進出をした時のNYタイムズの指摘とさほど変わりません。

2つの記事の内容は以下のようなものです。
(1) 圭はいまや日本だけでなく世界のスーパー・スターである。2014年はじめの世界ランキング17位が現在5位まで躍進したことご承知の通り。全豪オープンのランキングで男女を問わず20位以内に入っているアジア人は彼しかいない。4大大会の1つでも優勝すればアジア出身として史上初めてである(中国系アメリカ人1人を除いて)。
「フォーブズ」によればテニス外での所得は、昨年6月までの1年間で9百万ドルに達する。故郷の静かな町・島根県松江市は熱狂している・・・・


(2) しかし彼ほど、ある意味で「日本人らしくない」存在も少ない。彼の成功の秘訣に、普通の日本人とは異なったやり方を選び、本国の文化や風土を拒んで、アメリカで少年時代を過ごしたことにあると多くの人が認めている。塾に通い出した圭は、7歳ですでに先生に「アメリカに行きたいから、英語をうまくなりたい」と希望を伝えたという。
圭自身も「僕はもちろん日本人だが、長くアメリカに居たことが、ちょっと違った日本人にしたかもしれない」と語っている。
彼のきわめて攻撃的な試合ぶりは日本人らしくないし、彼を完全な日本人と感じていない人が増えているようである。


(3) 両親はテニスを趣味程度にしかやらないし、父親はエンジニアで母親はピアノの教師をしている。しかし息子の幼い時からの抜きんでたテニスの才能と努力を伸ばすには日本では駄目だと判断して息子の願いを応援した。「テニスで成功するには、この国の個人主義は弱すぎる」と父親は語る。
もちろん費用の問題があり、それを援助したのが盛田正明氏であり、奨学金で14歳の時、フロリダにある超一流のテニススクール(アガシシャラポアもここで学んだ)に行くことが出来た。


(4)松江の田舎からやってきた、言葉も碌に出来ずシャイで痩せた少年は当初、全くの孤独であり、周囲になじめず、苦労の日々だった。しかし、最後で卒業出来ずに帰国してしまう仲間が多い中で彼だけが4年間を全うして、今があると言える。


日本のスポーツ社会というのは、上下関係を大事にして、先輩を敬い、集団の決まりやけじめを大事にする。
例えば、この記事によると、日本の元テニスのプロ松岡某の最高世界ランクは45位で、若くして彼のランクを超えることには、無言の圧力があった、という。
フロリダで、彼は徐々に「自由」の価値を身をもって感じるようになる。「ここでは、相手の年齢だの社会的地位など気にせずに、自分の意見を言う事ができる。(空気を気にせず)オープンで自然に振る舞うことが出来ると分かって、それがとても大事なことだと分かってきました」と彼は語る。

3 以上は、日本とアメリカの「文化」や「国民性」の違いで、(もちろん異論のある人も居るでしょうが)個性と自由を育てるにはアメリカ的な風土が大事ではないかという問題意識です。
もう1つ、これは「文化の違い」というより、要は「有名人はその国では休めない」というだけの話とは思います。
しかしそれにしても、日本(だけではなく、例えば中国などはもっとそうでしょうが)では、彼のように成功したプロのスポーツ選手に対する、プレッシャーと注目とが尋常ではないという指摘です。
アメリカに居れば、彼は極端に言えば「ただの人」。
「ぼくはもちろん日本が大好きだし、ここがぼくのホームだ・・・・しかしここでは、どうしてもリラックス出来ないんだ」
記事は、日本でのプレッシャーが如何に強いかに触れて、1930年代に大活躍した佐藤次郎というテニス選手の事例まで紹介しています。1933年には世界ランク5位までいった彼は、26歳で海外遠征の途次船上から身を投げて自殺してしまいます。


4.「もちろん、日本の文化には大いに敬意を表する。
しかし、丁寧にお辞儀しているだけでは、テニスでトッププレイヤーになることは出来ないよ」というアメリカ人もいる。


日本とアメリカの「国民性」や「文化」の違いについて、もちろん夫々の良さや弱点があるでしょう。アメリカの「自由」や「個性尊重」は分かるけど、あの「競争尊重」で「アメリカがいちばん」で「何でも俺がおれが」は叶わない、という気もします。
なかなか難しいものです。
NT タイムズ紙(昨年9月8日)は、さらに続けて、「なぜ、村上春樹は1年の多くを海外で暮らそうとするのか、なぜ三宅一生小沢征爾は、日本を脱出するのか?」と問いかけ、「創造的な知性」を生み出すのはこの国では難しいのではないか、と疑問を呈しています。
ここまで言われると、例の「傲慢不遜なアメリカ人」というスタンスが、少し強すぎるように思いますが、どんなものでしょう。

しかし、冒頭の後藤健二氏の母上の記者会見に戻れば、これもひょっとしてネットの「バッシング」が出てくるかもしれませんし、いろんな批判があるでしょうが、
「自らの判断を大事にして、周りの意見や圧力に屈しない」という姿勢は、私は評価したいと思いました。