天皇皇后慰霊の旅とペリリュー島の中川州男大佐

1. 柳居子さんarz2beeさん我善坊さん貴重なコメントまことに有り難うございます。
昭和天皇についての評価は難しいですね。
この問題に深入りするつもりは今回ありませんが、10年前に学会誌に発表した論文に、村井良太駒澤大学教授は、
「研究の進展は著しいが、昭和天皇が能動的な意思決定者であったのか、受動的な平和主義者であったのか、それとも単なる機会主義者であったのか、その像はなおも定まらない」と書いています(「昭和天皇と政党内閣制」)。
柳居子さんは「受動的な平和主義者」説によっておられると思いますが、その気持ちはよく分かるような気がします。

今上天皇の場合はarz2beeさんご指摘のように、「残念ながらお言葉を理解できない」日本人が居るとしても、ご本人の思考と行動は明快だろうと考えます。
それは、rz2beeさんの「世界のどんな要人にも決してひけをとりません」と、我善坊さんの以下のコメントの通りでもあるでしょう。「今上天皇が「象徴」として、良識ある日本人の総意を代表しようと努力していることは伝わってきます(しかも政治的に中立を維持しながら)。しかしリベラルもマスコミも、最近は今上の努力に依存し過ぎており、自らの発言が少な過ぎます」。

その理由は、言うまでもありませんが、
(1)父親と違ってご自身は戦争に追い目を追う立場にはない。
(2)これも父親と違って、当初から新憲法下の象徴天皇として即位された。
(3)オールド・リベラリストである小泉信三や、クエーカー教徒のバイニング夫人をメンターとし、かつ、幼稚園から大学までをカトリックのミッション・スクールで育った皇后の存在
等を指摘出来ると思います。


2. 両陛下の「戦没者慰霊」は過去に、東京都慰霊堂、広島・長崎(各2回)、沖縄(やはり2回)の他、硫黄島サイパンを訪れておられますが、今回の旅は、東京から3千2百キロ離れたミクロネシアパラオ諸島の1つ、南北約8キロ東西はもっとも広い部分で2キロに足りない、美しい小島・ペリリュー島へ。


ここで行われた悲惨かつ壮絶な日米の戦いについては、今回の「慰霊の旅」にあたって新聞等の多少の報道があり、それで初めて知った方が多かったのではないでしょうか。
もちろん私も同じ程度の知識しかないのですが、ペリリュー島と、日本軍守備隊長であった中川州男(くにお)大佐(戦死後2階級特進して中将)の名前ぐらいはだいぶ前から本で読んで知っていました。
今回、その本でどう書かれているかを紹介したいと思いますが、児島襄の『指揮官』です。
彼は、共同通信勤務から戦史研究家になった人で、私が読んだ著書には『太平洋戦争』(毎日出版文化賞)『史録日本国憲法』『東京裁判』『日本占領』『ヒトラーの戦い』(文春文庫全10巻)などがあります。『指揮官(上下2巻)』と『参謀(同じく2巻)』は、前者の上巻は太平洋戦争における日本の指揮官を取り上げて短い人物紹介をしています。山本五十六に始まり、阿南惟幾終戦時の陸軍大臣)までの14人ですが、この中で私がいちばん印象に残るのが、安達二十三(はたぞう)中将とこの中川大佐の2人です。
そこで、前者は割愛し、児島襄がペリリュー島の戦いをどう書くかについて、簡単に紹介したいと思います。

(1) ペリリュー島に対する米軍の総攻撃は昭和19年9月15日に開始。
米軍の戦力は圧倒的で、作戦説明会で「人員で4倍、小銃は8倍、機銃は6倍、火砲3・5倍、戦車10倍・・・」と報告のあとルパータス師団長は「ゆえに、諸君、戦闘は短時間で終わるものと確信する。激しい、だが、素早い戦闘だろう。たぶん、3日間、あるいはほんの2日間かもしれない」
「拍手がわき、“スリーデイズ、メイビー・ツー(3日間、たぶん2日)”を合言葉に、いとも明るい気分で米海兵隊はこの島にやってきた」。


(2)ところが、結果は予想に全く反して、この戦いは「”空前の激戦”として米海兵隊史に記録され」ることになる。
守備隊は、島の住民を避難させたあと、中央の台地にある洞窟に陣地を築き、持久作戦をとり、夜に奇襲攻撃をかける。
最後には1万138人の日本軍はほぼ全滅。米軍も約1600人の戦死者を出し、甚大な損害を受け、日本軍の徹底抗戦は2カ月半に及んだ。指揮官の中川大佐は、「島を3カ月間持久せよ」というパラオ本島にある第十四師団長からの命令に沿った持久戦に徹して、次々に司令部を移動して闘い続けた。

(3)兵力は10月末には約500人に減り、
「敵は火炎放射器と戦車で、しらみつぶしに洞窟陣地を破壊している。食糧、水も枯渇状態になり、兵は進んで斬り込む死を望みつつあるという。・・・・兵の中には、飢えのため傷口にわくウジ虫を食う者も、いた」・・・・
しかし中川大佐は突撃を許さず、1日でも遅くまでと、戦い続けた。
「10月15日パラオ本島の師団司令部は、ペリリュー守備隊の奮戦に対する天皇の10回目の「ご嘉賞」の言葉があったことを、伝えた」
「10回のご嘉賞は日本陸軍史上に前例がない。・・・・東京の大本営でも、そのころは「まだペリリューはがんばっているか」が、朝のあいさつ代わりになっていた。」

(4)以下、大佐の最後を伝える児島氏の文章です。
「一粒の米もない日が続いていた。しかし大佐はなおも(突撃に)首をふった。
11月20日、敵は陣地100メートルに迫り、中川大佐が掌握する兵力は約50人となった。
この日、11度目のご嘉賞があった旨の連絡があった。大佐はまだ戦うといったが、24日、ついに敵攻撃が十数メートルに迫ると、軍旗を焼き、各個の遊撃戦を命じて自決した・・・・・・」


3.太平洋戦争における日本軍の戦いはどこも、凄惨をきわめましたが、この戦いもその代表的なものです。
両陛下が、どういう史実をどこまで把握しておられるか、どういう方からご進講を受け、どういう資料を目にされたかは、私には分かりません。
しかし、相応の知識と理解を持って、島に行かれ、慰霊碑に長い黙とうをされたのだろうと推察はしています。

最後に、中川大佐は、無口で定評があり、風貌も平凡、体駆も普通、ひどくまじめであるという以外に、きわだった印象はなにもない。しかし、部下に優しく、作戦と指揮は的確で、部下の厚い信頼を得ていた・・・・と著者は語ります。
熊本県出身、旧制玉名中学から陸軍士官学校卒。「現場が長い、叩き上げの軍人」と評されました。私事ながら、私の父は同中学の4年後輩です。彼の場合は、卒業後旧制五高に進みました。卒業した有名人には、映画「寅さん」で御前様を演じた、笠智衆が居ます。