日比谷公園の薔薇と「保守主義」とは

1.前々回のブログへの arz2beeさん十字峡さん前回への真正保守主義者さん、お礼が遅くなりましたが、いつも貴重なコメント有難うございます。
arz2beeさんの「自由に物が言いにくい感じが増してきました」には共感しますが、これこそまさに「リベラル」の対極にある風潮ですね。福沢が150年も昔に「自由は多事争論にあるべし」と言っているではないか、と地下で嘆いているでしょう。
十字峡さんの嘆きにも大いに共感しております。


2.ここで思うのは、いまや対立軸は「保守かリベラルか?」ではなく、「リベラル&保守VSラディカル(過激)」ではないかという思いです。
立憲主義を無視する動きは「ラディカル」としか言いようがないでしょうね。
「(70年続いた)9条を守る」という主張はまさに「保守」ではないでしょうか。
それにしても日本も戦後のドイツのように「憲法裁判所」を作れなかったかな、と思います。もちろん日本の最高裁にも違憲立法審査権はあることはあるのですが・・・

3.真正保守主義者さんのコメント
「「自由主義とも民主主義ともおよそ無関係な党です」と告知するほうが正直です」も納得ですが「保守党という名前だけは困る」というあたりをもう少し考えてみたいと思います。
(例によって硬くなってすみません)。

まず何が「真正」かは私には分かりませんが、「保守主義」(以下C)とは何か?
素人考えですが、以下のように理解しています。
(1)歴史的には、伝統的な制度や価値を守る政治哲学として、フランス革命の「リベラリズム(以下L)」思想への批判から始まった。


「リベラル」を支える価値が「啓蒙」であり「進歩」であり「自立した個人」(福沢の言う“独立自尊”あるいは“一身独立”)とすれば、
「保守」を支えるのは「反啓蒙」「経験と伝統」「進歩や個人の自立への懐疑」(人間はそんなに上等な存在ではない・・・)などであろう。


(2)しかし時代が変わって、いまこの両者ともに挑戦を受けており、CとLとが手を取り合うべきではないか。
挑戦をうけて対峙する相手は.(右でも左でも)「ラディカル(過激)」である。


手を取り合うべきと考える理由は、歴史の教訓を経て練磨された現在のCとLは、かってのC&Lから変質し、多様化し、その過程で2つに共有する価値が再認識されてきたと考えるからである。
それは、「漸進主義」を信じることであり(つまり、“残念ながら人間社会は(仮に良くなるとしても)徐々にしかならない”という醒めた認識)、それを支える価値観は「中庸・寛容・良識」であろう。


(3)さらに、なぜ対峙する相手が「ラディカル」なのか?
それは21世紀が「ラジカルの時代」だからであり、簡単にいえば、そいういう時代を生んだのは、グローバリゼーションであり、資本主義による格差拡大と市場化(=中間層の分化)であり、インターネットによる「感情の劣化現象」(勉強しなくても考えなくても、誰でも何でも言える・ある種の「反知性主義」)・・・等々でしょう。


(4)もう1つ補足しておきたいのは、多少繰り返しになりますがCもLも、いまや哲学・思想というより「態度」としての価値を大事にすべきではないかということです。
Cについて言えば、もともとそういう指摘があります。
つまり「伝統や保守や経験」と言っても、何が伝統で何に対して何を守るか?は時代・国・個人やそもそもイシュウ(問題)によって異なる。


それらのイシュウについてCとLの意見は異なるかもしれない。
例えばLGBTレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスゲンダー)について、例えば同性婚について例えば死刑制度廃止について例えば夫婦別姓について例えば安楽死について例えば沖縄問題について例えば原発について例えば9条について・・・

例えば、同性婚についてはL(個人の自由を尊重して認めるべき)だが9条はCだ(保守すべき)という人も多いでしょう。

しかし、「ラディカル」には断固反対するという姿勢、「中庸とは何か?良識とは何か?」を必死になって考え、「自由は多事争論にあり」と「文明は人民の気風にあり」という福沢諭吉の言葉を思い起こしながら、漸進的に社会や自分自身を良くしていくという姿勢を、個人的には保持していきたいと思っています。
(誤解のないように補足しますが、例えば3.11のように個別には「緊急に・ラディカル」に対応すべき問題がありますが、これは別の次元の話です)


4. ということで、自分でもいささか消化不良の硬い話になりました。
最後に、私事ですが新緑の美しい5月もそろそろ終盤、金曜日はひとりで日比谷公園を散策しました。

たまたま身内が出張で一時帰国して、公園の眞ん前のホテルに泊まっており、発つ前に渡す必要のある荷物を、本人は仕事で終日外に出ているので、フロントに預けに行くという用事を家人から命じられて出掛けたものです。
用件を済ませてちょうど昼時の公園を散策、薔薇が満開でした。
明治33年創業という「松本楼」がいまも健在で、緑に囲まれて賑わっていました。ここは昔から「ハイカビーフカレー」というのが人気で、中で頂くと880円ですが、650円でお弁当を売っていました。
これを手に入れて、ちかくのベンチに腰掛けて、薔薇の花を眺めながらゆっくりしました。

携えた本も読み終わりました。
数十年も昔に読み終えた(この時は英語で)チャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』です。岩波文庫から新訳・上下2巻が昨年11月&12月に出たので(石塚裕子訳)買い求めました。
19世紀のイギリス文学を21世紀の日本の老人がよみふけるなんていうのは、まことにおかしなことだなあと思いつつ、やはりディケンズはいいなあと思いつつ、

しかも、こういう古い異国の小説を楽しく読む行為は、果たしてリベラルなのか、保守なのか、それともひょっとして時勢に全く背を向けるのだから、「ラディカル」な人間の態度かもしれないなあ、
と自分でもよく分からなくなりました。