イシグロの『忘れられた巨人』再びと小説を読むこと

1. かわうそ亭さん、コメント有難うございます。
http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/
ブログを拝見しましたが、たまたま同じ日にイシグロの『忘れられた巨人』について、同じような読後感を書いておられるのは、同志がいたという思いでした。
かわうそ亭さんは、「道具立てはファンタジーですが、読後感はちょっと違う。
本書で最初に考えたのは広島と長崎です」
私は、「戦争の記憶を主題にした小説ではないか」。

書評をまったく読んでいないのでプロの批評家がどう言っているかは知りませんが、アマチュア同士で感想を共有できて嬉しかったです。

2.イシグロは6月に来日しましたが、7月17日NHK教育TVで「白熱文学教室」と題して若者に向けて、こんな風に語りました。


(1) 小説を読むことには娯楽以上の意味があるか?

―――事実や現実とは異なる「世界」をつくりだすことに意味があるのではないか。
「物語」をつくることは、「嘘」とは異なり、そこに行ったら何らかの重要な真実がある、そこが小説の「価値」ではないか。

そして、その「世界」でお互いに心を分かち合うこと、私はこのように感じた。君も同じように感じるか?共感してくれるか?
(注―三島由紀夫も、「その作品内部のすべての事象はいかほどファクト(事実)に似ていてもファクトと異なる次元に属するものが小説である」と定義している)

(2) また「物語」は「記憶」を通して語られる。映画や音楽など他の芸術ではできないこと。
しかも、その「記憶」が人間でも社会でも、歪められる。「記憶」は必ずしも信頼できない、という点に関心があり、私が小説を書くモチーフである。


(3) もう1つ「物語」で大事なのは、「メタファー(隠喩)」である。
忘れられた巨人』であれば、「雌の竜クエルグ」は、人間・社会は記憶を取り戻すべきか、忘れたままでよいのか?のメタファーである。


日の名残り』であれば、「執事」というのは、「感情の抑制(誰もが感情を表すことをおそれている)」と「権力に対する私たちの態度」(すなわち、私たちすべてが政治権力に対して「執事」ではないのか)のメタファーである。
(注――これって、昨今の国会前のデモを思い出す発言でもありますね。
一部の若者や学者は、そもそも「執事」であり続けることに抗議しているのではないか)

3.どういうメタファーを使い、どういう舞台設定をつくるかは自由である、
日の名残り』の舞台は英国だが、それはたまたまであって、別に日本でも構わない、
彼は5歳から、親の仕事で英国に移住したが、14歳になるまでは何れ日本に帰ると聞かされていた。
帰らないと決まってから、自分の中で記憶している(現実とは違うかもしれない)日本をイメージして小説を書いた。
好評だったが、「やはり(特殊な)日本なのね」と言われるのが嫌になり、自分の中にある「普遍性」を認めてほしいと思い、『日の名残り』を書いた。
この作品が成功して、「舞台は動かせる」という自信を持てるようになった・・・・
そんなことを語ってくれました。


4.ということからすれば、
忘れられた巨人』の舞台が6世紀のブリテン島で、竜や妖精や鬼が出てくることは、「メタファーを表現するための仕掛け」であって、私たちは彼が語る「物語の世界の魅力」に入り、読むことの快楽を心ゆくまで味わいながら、同時に「メタファー」に思いをいたすことが大事だろうな、と考えました。

それはまた、金井美恵子が『小説論、読まれなくなった小説のために』で繰り返し語る、小説を読むとはどういうことか?に関係します。
彼女は語ります。
――情報として読む読み飛ばし方と対極にある読まれ方で小説は読まれるものなのです。
――「なんでここを読んでくれないんだ」という気持が小説家は常にあると思います。
――ここを読んでもらいたいと作者が思っているものを、読者として読んだときの幸福感・・・・ここを読んでほしいというものを読んだときの何物にもかえがたい喜び、というものがあるのです。
――それは、読者が一人の創造者として、まさしくなにかを創造する人間としか呼びようのない読み方で小説を読むことによってしか得られないと思います。


5.かわうそ亭さんと私とが、たまたま『忘れられた巨人』を同じように読んだ・・・
おそらく同じように読んだ「読者」は他にもたくさんいるでしょう。
僭越だとは思うけど、そして成功しているかどうかは自信がないけれど、少なくとも「作者がここを読んでほしいと思うもの」を探す試みではあるのではないか。


実はたまたま素人ばかりでつくっている「あとらす」という雑誌の最新号に
三島由紀夫『海と夕焼』」とカミュ『ペスト』と読書会」という雑文を載せたばかりです。2つの小説を取り上げて、私なりに「小説を読むとはどういうことか?」を書いたつもりです。

忘れられた巨人』の原題は”The Buried Giant(埋められた巨人)”で、まさに「記憶」のメタファーです。
三島由紀夫の『海と夕焼』は、そしてアルベール・カミュの『ペスト』は、
それぞれ、何のメタファーでしょうか?
『ペスト』は言うまでもなく、ペストという病気について書いた物語ではありません。「ここを読んでもらいたいと作者が思っているもの」は医学の知識や常識とは何の関係もありません。仮に『ペスト』を読んでここに書かれた医学的な理解が間違っていると批判するとすれば、それは、『忘れられた巨人』を読んで、6世紀の英国に竜や鬼が居るわけがないと批判するのと似たたぐいの小説の読みではないか。

6. 因みに、金井さんは、読んだ小説について語ること(格好よく言えば「批評」)についてこうも言っています。
「(批評とは)そこで語られる小説をぜひ読みたいという気持ちに駆り立てるもの、すでに読んでいても、もう一度読み返したいという気持ちにさせてくれるもの・・・・」

実は上述した雑文を、家人と娘婿とに読ませました。どちらも特に感想はなく、ただ、
家人は「三島はねえ」と敬遠しながら、雑文を読み終えて「『海と夕焼』読んでみようかしら」と、
娘婿は「『ペスト』読んでみようかな」と呟きました。
身内の発言とはいえ、これまた嬉しく感じた次第です。