茅野市で迎えた70年目の「原爆の日」

1. 築40年の古い家は長野県茅野市の豊平というところにあります。標高1350米の八ヶ岳山麓ですが、今年の夏はこんな高地でも日中は日差しが例年より厳しいです。


豊平は、ペスタロッチの研究で知られる教育学者・長田新の出身地です。彼は、広島文理大教授のときに広島で被爆し重傷を負いました。日本教育学会の初代会長。
戦後、平和運動にも積極的に参加し、原爆を体験した少年少女たちの手記を集めた『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』を岩波書店から刊行、映画化もされました。

同氏との関係があるからかどうか判りませんが、ここ茅野市では毎年8月6日に「平和祈念式」が開かれ、今年で20回目を迎えます。
茅野市は、人口5万5千人、市役所は標高800米、日本の市役所のなかでもっとも標高が高いそうです。
その市役所に近い運動公園にある「平和の塔」前で午前7時50分からの式に、家人と2人で参加しました。100人弱の参加で、高齢者が多いですが、中には小さい子供を連れた母親の姿もありました。この中に実際に被爆した方が他に居るだろうかと思いながら座りました。

主催者・来賓の挨拶のあと、原爆投下の時間に合わせて1分間の黙祷をし、
広島・長崎の市長からのメッセージが読み上げられ、参加者全員で献花をし、
最後にみんなで「原爆許すまじ」を歌いました。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%BE%E3%81%98
浅田石二作詞、木下航二作曲の歌を知っている人もいまは少ないでしょう。
私も実際に歌ったのは、実に大学生以来でしょうか。

「ふるさとの街焼かれ、身寄りの骨うめし焼土に、いまは白い花咲く、ああ許しまじ原爆を、三たび許すまじ原爆を、われらの街に」


2.ここ何回か、「戦争の記憶」についてブログに書いてきました。
私自身の中でも、記憶は徐々に薄れていくと痛感しています。
カズオ・イシグロが書くように、薄れるだけではなく、記憶は歪められてもいくでしょう。
意図的に歪めるだけではなく、生の残虐な映像を見せることへの躊躇もあるでしょう。
やむを得ないとはいえ、戦争や原爆や9.11や3,11を題材にしたテレビや映画の映像を見て、いつも違和感を覚えるのは「本当はこんなきれいな姿じゃない」という思いです。
そういう意味では、広島の資料館やアウシュヴィッツを訪れて生の資料や映像をこの目で見ること、それと、文学(『原爆の子』のような記録でも大岡昇平の『野火』のような小説でも)のもつ力と自身の想像力を保つことが大事ではないでしょうか。
作られた映像にはどうしても限界があるし、これが現実だと思ってしまうのは怖い。

3. それにしても猛暑の中を毎日働いている人たちは本当にたいへんです。
短期間でも暑さを避けたいとこの地を訪れる人も多いでしょう。
我が家にも、先週末、働き盛りの男女7名がやってきて、古い畳の部屋に雑魚寝をして、自転車に乗って汗をかき、温泉に入って汗を流し、日曜日の夕方、猛烈な渋滞の中を中央高速を運転し、それでもしばしの涼をとって満足して帰っていきました。

若者というより40代ですが、「チャリデモ」と称して、仕事を終えてから自転車で国会前のデモに出かけるという連中です。

デモの話をいろいろと聞きました。大学生の時に参加した1960年安保反対のデモとはだいぶ違っているようです。
かっての労働組合や「全学連」などの組織ではなく、下から自発的に生まれた活動が主で、それに大学の先生も連帯しアピールするという流れになっている。
学生の対応も、普通の感覚で、横のネットワークを大切にして、スピーチも「アジテーター」流ではなく、自分の言葉で素直に気持ちを表している。
大学の教員のスピーチも冷静・論理的で、デモが「抗議」の場であると同時に「講義」の場でもある、学生のひとりは「安倍さんのおかげで勉強ができました、安倍さん有難う」と皮肉っていたそうです。

学生の意識の違いも影響しているように思いました。
1960年、まだ大学進学率が7〜8%の時代、「前衛」という言葉が政治的に意味を持っていて、自分たちが大衆を引っ張っていくという僭越な意識があったのではないか。
いま進学率は50%を超え、大学生であることへの気負いはないでしょう。
普通の庶民、普通の若者として発言しているのだと思います。


4.私からは、昔(60年安保の)の苦い経験をふまえて、「日本人は熱しやすく冷めやすいと言われる・・・挫折後をどうするかを考えておいた方がよい。挫折して、体制に呑み込まれる、あるいは一部は内ゲバに走って過激化する、そういった様々なリスクを考えておいた方がよい」と話しました。
学生時代の私であれば、呑み込まれたとは思わないが、少なくとも日本を脱出しようと思って、これも「逃げ」の1つだったろう、と。
これに対しては「心配ないと思う。過去を学習しているし、リーダーにくっついている訳でもないし、挫折せずに次の戦略を考えて、淡々と続けるのではないか・・・」と頼もしいことを言っていました。ソーシャルメディアの存在が大きいともあらためて感じました。

5.最後になりますが、そういう若者の声を我々世代はあまり知らないと思うので、Youtubeを紹介します。6月27日渋谷ハチ公前でのアピールの集まりで男女4人の学生が喋った中の1つです。
14分強と少し長いですが、素直に語っている映像です。

https://www.youtube.com/watch?v=wMfpd-R1mVw&index=2&list=PLvMEClv4nTpSEKqybZ0Sge_SYGq8SxhGA
とくに8分ぐらいからあと、彼女は、戦争で傷つき治療を受けるアフガニスタンの子供達と数ヶ月ともに過ごした。「こういう現実を見たからこそ私は、戦争をなくせるという理想主義を掲げたいのです。バカな理想主義者かもしれないけれど、その理想を掲げたいと思うのです」と語ります。
戦争の惨禍に苦しむ実情を自分の目で見て、語る・・・こんな風に体験から語ることも、昔は無理だった。



たまたま少し前のブログに,自らを「現実的理想主義者」と規定した元東大総長の南原繁氏について紹介した時に、
「私たちは、本当に「理想主義」を捨ててよいのか。
理想主義は、もはや「絶滅種動物」のような言葉なのか。」
と書きました。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20150628
もはや死語になっているのではないかと危惧する「理想主義」という言葉を若者が使う光景が、年寄りの心に残りました。
ひとつだけ驚いたのは、大学生とは思えないきちんとした服装です。
もう1人の女子学生は、ちょっとお洒落のしすぎかなと感じました。なぜジーンズ姿でいけないのかな。

私の記憶にあるデモは、白いブラウスと黒いスカートやズボンの樺美智子さんのような女子学生の姿です。

もちろん、こういう大学生の活動には、
共産党がバック。 中心メンバーに複数の中韓人。 支持する識者は反日極左
という挑発のコメントが書き込まれたり、
自民党の戦争を知らない若い議員がツイターで「利己的だ」と批判したりしていることは、ご承知の通りです。
ご存知のない方、上のYoutubeを覗いて、それぞれの感想や意見を持っていただくと嬉しいです。