「We」と「私たち」は同じか?「過ちは繰返しませぬ」の主語は?

1. 我善坊さん貴重なコメント有難うございます。私もテレビで産経記者の質問を聞いておかしいなと思い、邦訳を再読しました(ネットで読めます)。ご指摘の通りですね。訳知り顔におかしな発言をするジャーナリストには困ります。


ということで、談話と翌15日のことを今回もまだ引きずりますが、まずは諏訪湖の花火大会が1949(昭和24)年以来毎年、終戦記念日の8月15日に実施されるのをご存知でしょうか?
田舎の我が家からJRでひと駅と近いのですが、50万人という人出に恐れをなして実際に観たことがありません。もっぱら家人とテレビ座席で見ています。

その終戦記念日、全国戦没者追悼式にて、天皇が「〜さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返さぬことを切に願い〜」と述べられました。首相の式辞に「反省」の言葉は無かったのと対照的でしたが、天皇の言葉にも宮内庁の英訳があり、以下の通りです。
「Reflecting on our past and bearing in mind the feelings of deep remorse over the last war, I earnestly hope that the ravages of war will never be repeated.」
日本語に「主語」はありませんが、英訳はこの部分を含めてすべて「I」です。


他方で、「安倍談話」では日本語の主語が抜けているところは、政府作成の英訳で一部は「I」、一部は「We」となっていることを前回のブログで紹介しました。
「We」を邦訳すれば「私たち」。談話の日本語には「私たち」という主語は何度も出てきますが、この英訳も「We」。
しかし、この2つは同じ意味か?


2.「We」とは誰のことか?「私たち」とは誰のことか?


・「We」の邦訳を「研究社新英和辞典」で引くと、最初に(1)「我々は」「私たちは」という訳があり、(2)「国王の公式の自称」や「新聞の社説の主語」(3)「Youの代わりに」(4)「(総称的に一般の人をさして)我々人間」、と続きます。

・そこで広辞苑から「我々」を引くと、「わたくしたち」の意味とあります。
「わたくしたち」「わたしたち」の定義は広辞苑にはありません。
これでは定義したことにならないのではないか?「私たち」とは誰のことか?


・今度は、書棚にある英英辞典からWeを引いてみます。
―英国の権威あるOxford Advanced Learner’s Dictionaryの、上記英和辞典に対応する(1)の定義は「I and another or others, I and you」

―米国のThe American Heritage Dictionaryの(1)の定義は「Used to refer to the speaker and another or others」

即ち、英語の「We」は、最初に、「私=話者とその他の人(たち)」という明確な定義が出てきます。「話す自分」が真っ先に来ます。
これはとても大事なことだと、私は思うのです。
「私たち」だって「私」は含まれる筈だと言う人もいるでしょう。しかし、Weは,
「含まれる」ではなくて「I(=the speaker) and 〜」なのです。

3. 英語で「We」はよく使われます。

例えば「We shall overcome」,アメリカの1960年代、公民権運動を象徴する歌です。
1963年ワシントンに全米から20万人が集まって、キング牧師が「私には夢がある(I have a dream)の名演説をしたとき、ジョーン・バエズが大群衆を前に、歌いました。
https://www.youtube.com/watch?v=XbwcneRDMXM&feature=related
来日したときには日本語でも歌いましたが、邦訳は「勝利の日まで」です。誰が勝利するのでしょう?
英語の場合ははっきりしています。
それはジョーン・バエズにとっては「自分とその場にいる人たち」であり、加えて聴衆にとっても「自分といま一緒に歌っている人たち・仲間」です。だからこそ、最後のフレーズは「Deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday」と、IとWeが重なります。そこから一体感が生まれます。

また例えば、第二次世界大戦で日本軍の「侵略」によりシンガポールが陥落したときの下院でのチャーチルの報告は
「We have suffered a defeat, an imperial defeat, Singapore has fallen」ですが、
Weはもちろん「私とその他の大英帝国国民」です。
(因みに、吉田健一はこの言葉を引用して、これがシェイクスピアお得意の・弱強五歩格無韻詩(ブランクヴァース)になっているとして、「抑揚が演説の効果をどれだけ引き立てているか解らない。抑揚が演説そのものだとさえ言えるので、その外電の翻訳を新聞で読むのでは、少なくとも意味の半分は失われる」と書いています)。


4.対して、「私たち」は誰のことでしょう?
ここで、私は例の、広島原爆慰霊碑の碑文を思い起こします。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」の主語は誰なのか?


たまたま数日前、当地蓼科高原で「うんちく麻雀会」と称して3組6人の友人夫婦が賑やかに集まりました。
安倍談話も話題になり、「主語」の話も出て、Mさんがまさにこの「碑文」を取り上げて、「この主語は人類一般だと思う」と発言しました。
私は、「気持ちは分かるけど、無理があると思う」と少し反論しました。
気になったので、ネットで調べてみました。
まずこの碑文の作成者自身による英訳があって、以下の通り説明されます。
―「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」で、主語は“We”(われわれは)、これは「広島市民」であると同時に「全ての人々」(世界市民である人類全体)を意味すると、自身、1952年11月に広島大学での講義などで述べている―とあります。
また、広島市の公式サイトがあって、そこには質問への回答として以下述べられます。http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/index.html

――碑文の趣旨は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです・・・・

確かにMさんの意見も広島市の見解も気持ちは理解できます。また上に紹介したようにWeには4番目に「我々人間一般」という意味もあります。
ただし、4番目の「我々人間一般」の定義の、辞書があげている用例が「We had much rain last summer(去年は雨が多かった)」であることに留意したいです。つまり、決意のWeとしてはこの使い方はしないのではないか。

だから私は、ここの英訳の「We」を「We shall overcome」と同じく「私とその他の人たち」という英語の1番目の定義に沿って理解したいのです。
即ち、広島の平和記念公園を訪れて、慰霊碑の前に頭を下げる人、その人たち全てが「We」ではないでしょうか。
いま頭を垂れている自分が「I」で、いままでに詣でた人全て、これから詣でるであろう全ての人が「Others」である。
主語を、「全世界の人々」なんていう抽象論ではなく、具体的にだれか?と特定していくこと。そして「われわれ」はまず「自分」からだと考えること。
大げさだと言われそうですが、そこから始めることが大事だと考える者です。