京都で漢詩と和歌のコラボレーションの講演会がありました

1. 前回のブログはインフルエンザのためアップが遅れましたが、今回は京都に行っていたためまた遅れました。
朝のうち京都御所を散歩しましたが、梅は満開、あたたかくて今にも桜も咲きそうな陽気でした。

前回は,(1) バスの乗り降り (2) エスカレータの利用方法、
(3)ことば:とくに「しち」と「ひち」
などについていろいろコメントを頂き、重ねてお礼申し上げます。


十字峡さんからも――「京阪七条駅は「しちじょう」と呼んでいますが、すぐそばの七条大橋は「ななじょうおおはし」と呼んでいます」――というコメントを頂きました。
実はこの点は、本書を読んでおられない以上当然ですが、大ベストセラー『京都ぎらい』の著者は、この点も指摘しており、以下のように大いに嘆いています。
――――「ついでに書く。このごろ、京都の市バスは、車内のアナウンスで「ななじょう」と言いだしている。(略)
なるほど、「なな」という読みなら、中央政府の国語政策とも矛盾をきたさない。
しかし、「ひちじょう」や「ひっちょう」という地名からは、よけいに遠ざかっている。東京におしきられ、地名がどんどんおかしくなっていることを、かみしめる」―――

「京都ぎらい」を自認する著書が、洛中の京都人以上に、中央政府が押しつけていることに怒っている・・・・・
この反権力の反骨精神が「京都人」の証であるような気がしますがどんなものでしょう。


2. 七條や上七軒の「しち〜」が京都では「ひち〜」になる点について
我善坊さんの、“ハ行のHはもっとも難しい発音のはずなのに、なぜわざわざ「ひち」に変わっていったのだろう?江戸っ子は「暇人」が「しまじん」に「朝日」が「あさし」と発音する、この方が自然ではないか?”という疑問も面白いですね。

一方で友人からのメールでは、むしろ「し」が難しい「ひ」に転化するというより
単純に日本人は「ひ」と「し」をごっちゃにするのではないか?
という指摘もありました。
――大阪で「質屋」の看板に「ひち」と書いてあった、
他方で、円生は高座で「百円」を「しゃくえん」と言っていたし、
「電車にしかれて、布団をひく」のが関東弁・・・という具合です。

日本語の学問的なことはさっぱり分かりませんが、
たしか古代の日本語にはハ行はなく、ファ行だったようですね。
例えば、「言ふ」はもともとは「IFU」と発音していたが、やがてFが取れて「IU」となり、仮名遣いも表音に沿って「言う」に変わった・・・・
母は「Fafa」が「Haha」に変わっていった・・・



3.日本語について考える・・・なんていうのも京都に相応しい話題かもしれません。

京都滞在は、友人が活動している「二十一世紀詩歌朗詠懇談会」が主催する講演会に出席するためです。
著名な中国文学者で全日本漢詩連盟の会長でもある石川忠久氏の「李白杜甫漢詩の世界」
冷泉家時雨亭文庫の冷泉貴実子氏の「今に続く伝統の和歌」
の2つの講演があり、なかなか面白かったです。
和歌も漢詩も、平安時代には盛んに朗詠されていたそうで、
この2つが文化として共有されていた時代があったのだなとあらためて感じました。

源氏物語」の紫式部の父親が漢学者で、彼女は子供のころから父親のもとで漢学をまなび兄弟よりはるかに覚えが早く、父親に「男の子だったら後を継がせるのに」と嘆いたという話や、
和歌の祖と言われる藤原定家は、『明月記』という日記を19歳から亡くなる直前まで漢文で書いたことはよく知られていますが、
その定家が和歌だけではなく、漢詩もたくさん作っていたということは今回初めて知りました。


言うまでもないことですが、
――(1)「書き言葉」を持たなかったこの国に、漢文・漢語が伝来し、漢文訓読(いちばん簡便な翻訳のしかた)➡「真仮名」の発生、➡カタカナとひらがな、➡「漢字カタカナ交じり文」という今の日本語のおおもととなる<書き言葉>が生まれた。
(2)さらには、ひらがなが漢文訓読から離れ、独立した文学体系として「やまと言葉」で詠む和歌を中心に成立していった ―――
という言葉の歴史が、どれだけ重要であるかを、強く感じます。


4. 石川先生の話からは、漢詩をこよなく愛する気持ちがよく伝わってきました。
(1) 漢詩は世界で最高の詩文学であると思う。
(2) 中でも李白杜甫は世界最高の詩人であると思う。
(3) この2人は11歳の違いだが、8世紀の盛唐のころ(玄宗皇帝・虞美人のころ)に活躍し、交流もあった、年下の杜甫李白を深く敬愛し影響を受けた。
(4) 中国文学史にそびえたつ二大詩人が、同時代に出て、しかも互いに親しく交わっていたというのは、まことに奇跡的なことで、他にこのような例はないだろう。


など、彼らの詩を中国語での読みも交えながら話をされました。また、
阿倍仲麻呂李白との交友(遣唐使で唐にわたった仲麻呂科挙にも合格し、官僚としても重く用いられた)・・・

李白は、もともとは今でいうキルギス共和国の出身で、ひょっとすると眼が青かったかもしれない・・・
というようなエピソードも出て、当時の唐がいかに多民族を受け入れるグローバル化された社会だったかという想像が大いに膨らみました。

冷泉貴実子氏は、俊成卿や定家卿の和歌を紹介しながら、「うたを詠む」ということがどんなに「日々、生きて恋をして、自然に包まれて暮らす」中世知識人の心の拠り所だったかをやはり、和歌への愛着をもって話されました。

漢詩と和歌のコラボレーションという舞台には京都は相応しいところだなと思いながら、座っていました。
350人以上の出席者があり盛会でした。後ろの席に座っていた友人の1人が
「講演の間に、詩吟や和歌の朗詠が入るのもよかった、4時間の長い講演会だったが、途中、寝ている人をまったく見かけなかった。そういう意味でも珍しい講演会だった」と感想を述べていました。