福沢諭吉と日原昌造のこと

1. 今年も残り少なくなりました。
相変わらず、東大駒場のキャンパスを歩いていますが、銀杏の紅葉もだいぶ散りました。落ち葉の掃除がたいへんでしょう。
他方で、隣の先端技術研究所内のメタセコイアの並木は少し遅れてまだ紅葉しています。

今回は、昔の職場のOB会が年1回出している雑誌に寄稿した、「福沢諭吉と日原
昌造」について,このブログでもご報告します。
取り上げる理由は、福沢が晩年もっとも力を注いだ「修身要領」とその作成に尽力した日原昌造という人物について、慶應義塾の卒業生も知らない人が多いようだということがあります。


2 日原(ひのはら)昌造は、嘉永6(1853)年長州藩士の子として豊浦(今の下関市)に生まれ、小泉信吉(のぶきち、今上天皇の皇太子時代の教育責任者で元慶應義塾塾長小泉信三の父)に英学を学び、明治5年には上京して慶応義塾で教鞭をとりました。

その後13年に創設されたばかりの横浜正金銀行に入り、翌年小泉信吉に随行して渡欧、ロンドン出張所の開設に従事し、支配人となります。ロンドン滞在中、時事新報に(「豊浦生」の名で)「倫敦通信」を寄稿して連載して、福沢から高い評価をうけました。


本店勤務を経て、20年には渡米、サンフランシスコおよびニューヨークに勤務しましたが、24年7月「健康とかく勝れざるをもって職を辞して帰朝」し、郷里に引きこもって晴耕雨読の日々を送りつつも、時事新報論説への寄稿は続けられました。「爾来退隠して世に出でず、自ら鋤鍬を手にして農耕を事とし、傍ら西洋の新聞雑誌を読むことを怠らなかった」と伝えられます。

福沢諭吉は日原に絶大な信頼を寄せており、「日原の議論はあたかも余の言わんと欲するところを言い尽くして、一としてわが意に適さざるものなし」と激賞しました。明治37年、福沢の死の3年後、がんのため52歳で死去しました。
  
  
 3. 最晩年の福沢は「修身要領(moral code)」の作成に最後の情熱を燃やします。
明治23年に発表された「教育勅語」に必ずしも納得していなかった彼は、教育勅語に代わる、或いはそれを補足する日本国民の価値規範を自らものしたいという夢を抱いていました。脳溢血に倒れ、病床にあって、作成には信頼する人たちの助力が要る、郷里に隠棲している日原に何とか上京してメンバーに加わってくれないかと長男の一太郎に代筆させて、依頼します。


福沢は、それまでも横浜正金を退職した日原に慶応義塾や時事新報の経営に加わってほしいと期待し、手紙を書いては上京を促していました。
今回ばかりは病床からのたっての依頼で、彼も腰をあげて、作成に参加します。福沢をもっとも象徴する言葉といわれる「独立自尊」は、「修身要領」のキーワードとして全29条のうち18回も出てきますが、これは日原の意見が大きかったと言われます(因みに福沢の戒名は「大観院独立自尊居士」、お墓は麻布山善福寺にあります)。


4. 修身要領は明治33年2月に完成しますが、他方で福沢はその年の末には、慶応義塾の廃塾を考えるようになります。三田の土地を売って、その資金を「修身要領」を日本全国に普及させる活動に使いたいという意向を周囲にもらします。それは、『福翁自伝』の最後にある、「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」を実現したいという願いを強くもっていたからだと言われます。

関係者はもちろん廃塾に反対でしたが、福沢を説得できません。やはり日原しかいないということで、要領作成を終えて帰郷した彼に再び、力を欲してほしいという書状が送られます。しかし、2度目の発作を起こした福沢は34年2月3日に長逝し、日原が出る必要はなくなりました。


 葬儀のため上京した彼に再度出番がやってきます。葬儀には約1万5千人が参列したそうですが、学生の代表から切なる願いとして、寺まで棺を担いでいきたいという申し出がありました。無経験の素人に任せて何かあったらたいへん、やめてほしいという学校側の回答を学生たちは受け入れようとしない。そこで学生に徳望のあった日原がまた頼まれます。彼は、君たちの気持ちはよくわかる、しかし福沢先生が君たちに担いでほしいと願うのは自分の遺体ではなく、自分なきあとの慶應義塾ではないだろうかと語りかけ、皆納得したといいます。 


5. 小泉信三には「小泉信吉と日原昌造」という短い回想録があります。そこで小泉は「日原昌造といっても今日もう知る人は少ない」が、彼は「福沢諭吉が終始、殊にその晩年において―恐らく誰よりも―信頼尊重した後輩であったように見える」と語ります。
彼の父信吉は早く亡くなりました。彼は、「筆者の父が死んだ後も、母は日原と音信を絶たず、日原はまた上京すれば必ず尋ねてきて、小児の筆者と母と三人で小泉の墓参りをしたことなどもあるが、小児にとっては、この粗服炯眼(けいがん)にして不愛想な老人は親しみ難い人であった」と書きます。また、「人好きの悪い、人に狷介(けんかい)の印象を与えることがあった」とも「結局銀行家タイプの銀行家ではあり得なかった人と思われる」ともいいます。

一方で福沢がその識見や文章をあれだけ愛し、学生にも慕われたという面と、他方で人好きの良くない面と、この二つを合わせ持った日原昌造という人物に興味を惹かれて、明治10~20年年代に時事新報に載せた古い論説(200篇以上もあるのでごく一部)を読んでいるところです。
「しかし」と小泉信三は続けます、「福沢が真に日原において重んじたのはその文章ではなくして、彼が名利を求めず、常に自ら信じるところをいい、いうところを行って苟(いやしく)も枉(ま)げないその操守にあったことは、いうまでもない」と。


6. 「今日もう知る人は少ない」日原昌造の名を私が初めて知ったのは、自ら「福沢惚れ」と称する丸山眞男の文章(『回顧談』)からです。
1960年安保闘争の年の秋、法学部31番教室で聞いた丸山さんの「政治学」は思い出に残る講義でした。「政治は悪さ加減の選択である」という福沢諭吉の言葉を聞いたのもこの授業ででした。


最後に、横浜正金銀行(YSB)という銀行も「もう知る人は少ない」でしょうが、なかなかユニークな、明治から昭和の敗戦まで、海外ではもっともよく知られた日本企業の1つだったと思います。
福沢諭吉はこの銀行の必要性を主張して、盟友だった当時の大蔵卿の大隈重信に働きかけて3分の1の政府出資を仰ぎ、創設にこぎつけました。2人は「横浜正金創成期の恩人」と言われます。横浜にあった本店はいまは神奈川県立歴史博物館になっていますが、「正金銀行のコーナー」もあって2人の写真が飾られています。